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2013/04/13

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の周辺

 ファンには待望の村上春樹著『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文藝春秋)が今日、出た。
村上春樹さん新作 発売初日に10万部増刷」( MSN産経ニュース)だとか。

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← 村上春樹著『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文藝春秋) 朱色、緑、褐色、黄色、紺色、赤色の色鉛筆? 白や黒がないのが気になる…

 世には手も早いが、読むのが実に早い方もいるようで、既にレビューも出ている:
「最速レビュー。村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』に驚いた(エキサイトレビュー)」( エキサイトニュース)

 小生はというと、生憎、合計すると1500頁を超える小島信夫著の『私の作家遍歴』(全三巻 潮出版社)に手を付け始めたばかりで、少なくとも今月いっぱいは、本書にかかりきりになる。
 当分は、村上春樹のみならず、他の本にも手が出せそうにない。

 なので、以下、縷々書いていくとしても、ネタバレはありえないので、余計な心配は無用である。
 
 ただ、ミーハーの小生としては、評判と人気とに少しは肖(あやか)りたいので、周辺をうろついてみた。

 まずは、一見して奇異な感を受ける表題から。
 表題の中の「多崎つくる」は、この小説の主人公の名前。
 この名前に、「色彩のない」と冠されている。

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→ 一昨日、折々、驟雨に見舞われた。そのお詫びじゃなかろうが、虹が眺められた。色の話題ついでに本画像を載せておく。

同作は、高校時代に仲間4人に絶縁されて心に深い傷を負った36歳の男性が、自らの人生を問い直していく物語」だとか。

 仲間四人とは?
 どうやら名前に秘密を解くカギがありそう。

赤松慶
青海悦夫
白根柚木
黒埜恵里

 彼らを含めての五人組から彼「多崎つくる」が或る日突然、絶縁宣言されるところから物語は始まる。
 実際、五人組の中で多崎つくるだけ、色を表する表記がない。
 そのことが絶縁宣言の理由なんて、単純な話じゃなかろうが。

 この小説には、灰田文昭なる人物も登場する。彼は、名前に色彩がないどころか灰色!
 何かカギを握る人物のようで、気になる。
 そもそも多崎は、聞きようによっては、多彩とも受け止められ、他の四人より余程、彩色豊かなる可能性を秘めているようにも感じられる。
 
岬・崎(さき、みさき)は、丘・山などの先端部が平地・海・湖などへ突き出した地形を示す名称」ということからして、多くの岬をつくる、多次元世界への感性の触手を幾つも伸ばす…の暗喩にも思える。

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← 「木」は、樹だが、名前に「木」の文字があると、耳には「き」であり「黄」と聞きなすこともある。

 本書の題名を英訳すると、「Colorless Tasaki Tsukuru and the Year of His Pilgrimage」それとも「Colourless Tsukuru Tasaki and the Year of his Pilgrimage」になるのか。
 ネットをサーフィンしてみたら、「Faded Tsukuru Tasaki and the Year of his Pilgrimage」と訳されている方(欧米の方)もいた。
 なるほど、「色彩のない」は、文字通りには「Colorless」だが、ニュアンスも含めると、「Faded」のほうが相応しいのか。
 さらには、「Colorblind」なる訳もあるようだ。
 小説を読んでいない現段階では、どちらがいいかという判断は留保しておく。

「巡礼の年(Années de pèlerinage)」なる名称は、「巡礼の年 - Wikipedia」によると、「フランツ・リストのピアノ独奏曲集。《第1年:スイス》《第2年:イタリア》《ヴェネツィアとナポリ(第2年補遺)》《第3年》の4集からなる」ようで、村上春樹の小説では、「《第1年:スイス》の第8曲〈郷愁(ル・マル・デュ・ペイ)〉が登場する」とか。

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コメント

「名前に色彩がないどころか灰色!」 ― 素晴らしい。こうしたお遊びを用意しているのが腕なのでしょう。しかし現代の物語に重要な意味を持つ観念連想としてはあまりにも直裁的で構造性に欠ける - それがポストモダーンなのかもしれませんが。それは、ビートルズの音楽に対しても色彩感の灰色のリストの音楽に対してもです。先ずそこの関わりだけでも、知識人にはあまりにも稚拙に映り、一般大衆を引き付けてやまない部分でしょう。一種の欺教養文学のようなものですね。 

投稿: pfaelzerwein | 2013/04/13 16:02

村上春樹は好きです。
ほとんどの作品を読んでいます。
でも、気に入ったのは半分くらいかしら。
新作が出ても、飛びつくタイプじゃありません。
こちらも積読がたまっていて、まだ手出しできないし。
4月は忙しくて時間がありません…。
ううう。

投稿: 砂希 | 2013/04/13 20:57

pfaelzerwein さん

小生などが書いたことは、所詮は乏しい想像で春樹作品の辺縁を巡ってみただけのもの。
当分は読めない小生の僻目のなせるわざです。
『1Q84』も、とうとう今に至るも読んでいない。

『海辺のカフカ』は読んだことがありますが、小生の中の乏しい読書経験からすると、マルケスやマンなどに比べると、やや異常性(?)が足りない気がする。
要するに物足りないのです。
新作こそは一定の域に達していることを期待していますが。

投稿: やいっち | 2013/04/14 21:44

砂希さん

文學は、慌てずとも、作品はそこにあります。
読める時に読めればいい。
今は、合計1500頁以上の大作を読んでいるので、他の本に手を出すのは来月以降。

村上作品は、『海辺のカフカ』など、それ以前の作品は大体、読んだことがあります。
小生は、ブランド志向というのか、マルケスやマンや藤村、メルヴィルなどを読んだ体験をつい基準にしてしまう。
となると、今のところまだまだ一定の域には達していない気がします。
それはそれとして、近い将来、村上作品、改めて読んでみたい。
まずは、『1Q84』から!

投稿: やいっち | 2013/04/14 21:52

「やや異常性(?)が足りない」 ― これまたやいっちさんらしい表現ですね。これまた私流に表現すると、例えばマンのは、一般教養を超えた視点からの思索(環境認識)を要求するからこその反教養文学と呼びたいと思いますが、マルケスにおけるそれも十分に想像できます。

勿論現代の村上において、ドイツで評価される性表現のそれは、当然の事ながら19世紀の死に至ったり破局を迎えるそのものではなくて、日常のそこにあるからこそのエロ表現が社会や世界像を示しているのでしょう。ある意味それは当然なのですが、一神教の世界観の中では60代後も十分に描ききれなかったものだから、なんでもないそれが表現として珍重されたと思います。その意味では、日本人が村上を読んでも日常認識を全く超えないかもしれません。

投稿: pfaelzerwein | 2013/04/16 03:41

pfaelzerwein さん

大江健三郎や村上春樹とかが日本においてだけじゃなく、欧米などでも評価されている事実、その背景には何かしら妄想を逞しくさせるような興味深いものが感じられます。

尤も、大江の本は(比較の上では)村上ほどには売れていない。
でも、大江はノーベル賞を受賞した。

文学的な価値もだけど、何かイスラエルがカギを握っているような感も。アメリカでの評価が高いかどうかも、重要だし。
日本人には理解しきれない世界が描かれているということなのでしょうか。
『海辺のカフカ』はそれなりに面白かったけど、世界文学レベルとは感じなかった。
その後の作品は読んでないので分からないけど。

投稿: やいっち | 2013/04/20 22:28

「何かイスラエルがカギを握っているような感」 - 大江のシオニズムへの姿勢は知りませんが、少なくと氏の文学を読む限り二十世紀中盤の左派知識人としての普遍性はギュンター・グラスと同じようにあると思います。それ以上に私にとっての関心事は、ユダヤ主義をそうした政治的な影響や陰謀論で扱うと本質的なヘブライズムとか一神教の世界観を見落としてしまうということです。そもそもニュートンを挙げるまでもなく、ユダヤ思想の無いところに近代科学などは根を張りません。自然科学だけに限定しても、日本人がいつもおかしな候補者や工業技術的功績に受賞を期待するのはその科学的思想を取り巻く環境や世界観を理解していないからです。科学的とはそのような日本人が考えているものではないでしょう。

これに関しては無神論のホーキンス教授のことでも話題になったと思いますが、万が一村上が文学賞をとるとすれば、川端への受賞とほとんどその意味は変わらないでしょう。

投稿: pfaelzerwein | 2013/04/22 02:58

pfaelzerweinさん

魔術から科学へ、をテーマの本を学生時代、読んだことがあります。
ガキの頃からのヒーローの一人、ニュートンは、錬金術に傾倒していました。
科学の底にある魔術や錬金術の思考は、根深い欧米の嗜好であり、そもそも科学を志向するものなら誰しも念頭にしっかり置いておかないといけないはずのものです。

科学の前に、長い長い魔術や呪術やの思考法が続いてきた。
欧米では、そうした魔術的思考との徹底した戦いの果てに科学が難産の果てに生まれてきたのは常識。

今の人間であろうと、魔術の発想から逃れられるとは思えない(ことも、欧米の方なら常識でしょう)。

日本には、科学や技術が一緒にやってきた。天から舞い降りるように。
科学(や技術)について無知とは言いませんが、初心なところがある。
単純な無謬信奉か頭ごなしの不信。

文學において(多分、政治や経済も含めてか)、欧米の思考や発想とは違う枠組みの世界が徐々に登場し始めている。
その中で、大江や(従来の)村上は欧米的思考から理解可能な範囲を食み出さない中での欧米に刺激を与えうる日本文学。
ただ、マルケスほどに刺激的じゃない。
もっと日本の土壌に根ざしたもので、しかも、深層を抉ることで普遍に至るような文学かどうか。
その意味で、見当違いかもしれないけど、島崎藤村や島尾敏雄などのほうがよほど、日本的であり且つ、普遍的だと感じます。

投稿: やいっち | 2013/04/22 22:00

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