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2013/03/04

藤村『夜明け前』を読了して

 島崎藤村の『夜明け前』を過日、読了した。
 11年ぶりで、通算、三回目。
 初めて読んだのは、若い頃だったが、体力と意地で読んだようなもので、味わうより、読むこと自体が目的化していた。中央公論社の日本文学全集の中の一巻で、ドストエフスキーの作品などのようには、一気呵成に読めず、難行苦行した印象だけが残っている。
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 二回目は、11年余り前。
 その時は、敢えて中身を要約しつつ、ゆっくりじっくりを心がけて読んだ。それでも、二か月ほど。その頃は藤村の小説群を読み漁り、読み浸っていて、藤村の世界に少しは馴染んでいた。
 だからこそ、肝心の代表作である『夜明け前』を味読したかったし、楽しみたかった。
 そして、その日本文学の中でも際立つ独自性と先進性、何より物語る構想の骨太さを思い知った。

 今回は、四か月以上を費やして読み進めた。またいつか、それほど遠くない将来、読み返したい。今度は、木曽路を旅しながら!

 以下、前回、読んだ時の感想文を載せておく(掲げた画像は全て、小生が利賀村で撮影したもの)。

 二ヶ月というゆったりとした時間を掛けて、島崎藤村著の大河小説『夜明け前』を今日、読み終えた(岩波文庫版にて)。
 二ヶ月という時間をこの小説に費やすことは、当初よりの予定通りだった。小生は、この書を木曽路を徒歩で旅するつもりで、ゆっくりのんびり読むつもりでいたのである。
 そのような読み方が、また最適な小説でもあると今、読了して深く感じている。

 昨年だったか、篠田一士著の『二十世紀の十大小説』(新潮文庫刊)を読んで、『失われてた時を求めて』(プルースト)や『城』(カフカ)『ユリシーズ』(ジョイス)『特性のない男』(ムジール)『百年の孤独』(ガルシア=マルケス)『伝奇集』(ボルヘス)『子夜』(茅盾)『U・S・A』(ドス・パソス)『アブサロム、アブサロム』(フォークナー)などと並べて篠田氏が、この『夜明け前』を挙げていることに、やや驚いた。
 何か評論上の思惑なり仕掛けがあって、この書を選んだのではと勝手に思ったりしていた。
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 しかし篠田氏の『二十世紀の十大小説』を読む限り、篠田氏は心底、島崎の『夜明け前』が二十世紀の十大小説の一つだと見なしていることは、認めざるを得なかった。
 けれど、その篠田氏の評論を読んだ当初は、島崎藤村と言えば、『破戒』や詩集などを読んだことがあるくらいで、肝腎の大作は敬して近寄らずにいたのだから、自分なりの判断は留保せざるを得なかったのである。
 さて、この短くもない歳月を掛けて大河小説を読み終えてみて、深く静かな感動を覚えている。静かではあるが、熱い情が沸き立っていることも事実である。

 島崎藤村の父親である正樹をモデルにしたこの小説ではあるが、幕末から明治維新を経た、その時代の混乱と不安と、そして何より、維新に(王政復古)に掛けた半蔵(正樹の小説上の名前)の純粋な期待の念と、その熱い期待であるが故の失望の深さが、大きなスケールの中で実によく描かれている。
 所謂自然主義の作家と文学史的には位置付けられることの多い藤村ではあるが、とてもとてもそんな枠組みに収まる作家でも小説でもないのである。

 よくこの小説を低く評価する人は、あまりに歴史的細部の叙述や引用が多すぎることを挙げる。が、実は、むしろ、その歴史の細部の数知れない事実の錯綜の中に半蔵が、あるいは一人一人の人間がいたのであり、その骨太の構成にこの小説の命があるのだと思う。
 時代など、一人の人間に見通せるわけもない。木を見て森を見ないのは愚かというが、では一体何処の誰が全体を見通せるというのか。
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  きっと、多くの人がそれぞれに彼らなりの森を見んとするのだ。それを他者が、あるいは後世の人が、森ではなく木を見ているに過ぎなかったと冷笑するのは容易い。
 主人公である半蔵も幕末の動きを、今こそ平田派の思いの叶う時、仏教や儒教など渡来の蕃たる思想や宗教ではなく、神ながらの道の成る時と信じ、夢の実現を願ったのである。

 しかし、いざ、維新になってみると、それは個人の思惑など吹き飛んでしまい、神道さえも脇に追いやられ、一方、彼自身、家督を息子に譲ってまで宮司になったりしてみたが、何一つ夢は叶うことはなかったのである(やがて国家神道というまがい物の神道が幅を効かすことになるが、それはまた別の話)。
 それどころか、彼、半蔵は村では居場所さえ見出せない人間になっていた。天皇の行幸が西南戦争の後にあり、彼の旧本陣が天皇の休み場所になった時も、半蔵は遠ざけられる始末だったのである。彼は問題の人とされてしまっていたのだ。

 世界が、特に西洋を中心にナショナリズムが勃興し、産業革命が進行し、世界進出がイギリス、フランスなどを中心に激しく成る中、日本も江戸の半ば頃より、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤らを中心にナショナリズムの動きが思想・文学研究の形で盛んになる。
 それまで脇にあった『万葉集』や『古事記』などがにわかに注目を浴びるのである。何か渡来のものでない、日本古来のものが捜し求められたのである。
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 世界が相互に交流し合う。が、当面はどうみても欧米からの文化・思想・経済・政治の輸入しか予感できない。いずれ世界の急激な社会・経済構造の変革の波に呑まれるのは避けられない。

 では、その中で日本の日本たる所以はいずれにあるのか。何処までも深く激しく、危機感を持って心あるものは誰しも人に、自らに問うたのだ。
 が、明治の世は、維新直後の熱気と初心とは裏腹に、役人の跋扈する、純粋な思想など付けこむ余地のない社会に成り果ててしまう。そんな世を半蔵は目にし、自分の夢は破れ、居場所を失い、やがては座敷牢に入れられ狂死して果てるのだ。

 今、幕末から明治維新、敗戦直後の混乱期などに匹敵する時代の変貌期に日本も、恐らく世界もある。変化の渦中に、不安の只中にいるわけである。変化の果てが誰にも予見できないでいる。構造改革というが、それは単に古いシステムが今の変革期に用を成さなくなったというだけではなく、もっと世界規模の、グローバルな大変貌が今、起きつつあるのだと小生は思う。
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 何といってもきついのは、変化の速度があまりに速いことである。人の等身大の速度ではないのである。明日が誰にも見えない。だから、今、ナショナリズムの勃興が新たに生じているのだろう。
 とはいっても、今の時代にナショナリズムの名に値する思想を提供する人物は一人もいない。ただ、明治の昔か、戦前に使い古されたメタファーを持ち出すだけなのだ。
 どうせナショナリズムを喧伝するなら論じるに値する思想を示して欲しい。

 余談が過ぎた。
 今の時代の全貌を描くことは、きっと将来の誰かの課題になるのだろう。その時、一体、どのような相貌が描かれることになるのだろうか。

                               (01/09/02 )

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コメント

島崎藤村ってあまり知らないんですよ。
弥一さんは、夜明け前、三回読まれたわけですね。
僕は日本文学では、悲の器の、高橋和巳にはまった時期ありますね。
悲の器の、主人公の法学者は、私は権力である、私は権力でありたい、などと語る。なんかかっこいい。
日本文学研究者のドナルドキーンさんは、敗戦後の日本人を描いた里見淳と同じ結論に達した、この人たちと一緒に生きたいと日本人に帰化したわけですが、311という原体験を胸にした新しい日本文学が出てくることを祈っています。

投稿: oki | 2013/03/04 21:53

okiさん

ガルシア=マルケスの『百年の孤独』や藤村の『夜明け前』は、是非、読んでください。

『源氏物語』など、世界レベルの文學作品はありますが、明治以降では、藤村の『夜明け前』も、その一つ。

埴谷雄高の『死霊』は力技ですが、やや評論家の頭でっかちな作品の風も。

明治以降、数々の戦争の悲惨体験を潜ってきました。
漱石や鴎外、村上春樹、大江、安部公房、三島由紀夫、川端康成、谷崎潤一郎、島尾、安岡などなど、少なくとも日本人は世界的に有名だろうという作家はいる。

でも、海外で有名というと、大江や村上くらいのものか。
でも、本当に戦争に向き合った作品は、どうだろう。
3・11は近年の悲惨なので、大事件に違いないけど、国内だけで300万人、アジア全体では1500万人の犠牲者を出した15年戦争(さらにここに至る経緯も含めて)は、今もって大問題のはず。
島尾や坂口安吾、遠藤周作『海と毒薬』、森村誠一『悪魔の飽食』とかいますけど。

3・11については、その問題の深甚さは、まだまだホントには認識されていないと思います。
それどころか、現政権や読売は事態の深刻さや問題の本質から目を逸らそうと懸命。

敗戦直前の原爆投下、戦後のビキニ事件を経験した日本であるにも関わらず、日本人の多くは(誰もが、じゃない!)原子力の平和利用といった幻想を安易に信じ、原発を推進してきた。
こういった問題に取り組むには、時間が要ります。
文學として結実するには、少なくても十年は必要。
息の長い戦いになるでしょうね。
日本人にはその根気があるのかどうか。15年戦争でも、本格的な作品は生まれなかったみたいだし。

投稿: やいっち | 2013/03/04 22:32

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