鳥餌果実の恩義も知らず?
それでいて、その日その時は、体が億劫だったり、気鬱だったり、今の退屈さに耐えられず、ついテレビなどに頼りがちだったりする。
時がたださえ止めどなく流れゆくというのに、今という時を一層無為に過ごそうと、自ら図ってしまう。
愚の骨頂である!
日々、細かな失敗を繰り返す。
借金を積み重ねたりという愚を避けるため、浪費だけはしないように心がけているのだが、その実、訳の分からない細かな忘れ物、失敗、勘違いの連続である。
細かなこと、というと、それこそ、日々、家の中はもちろんだが、家の外、庭や畑を見て回り、日ごとの小さな変化を見つけては喜んだりする。
昨日、小さな蕾だったのが、やや固さがほぐれ始め、ちょっと油断…ほかのことに気が奪われているうちに、一気に花開いているのを発見し、小さな感動を覚えたりする。
我が家には数本の山茶花があるが、それぞれに蕾の成る時期、開花の時期が微妙に違う。
一方では年を越す前に蕾が目立ち始めているのに、他方では枝葉だけが冬の寒さに耐えている。
あちらの山茶花は一月の終りになってやっと一つ二つ蕾が解れ始めたばかりだというのに、こちらの山茶花は咲き誇っていたりする。
日当たり、風の通り道、ほかの樹木との関わり、土壌の違い、雑草の多寡の違い、ほんとにそれぞれ育つ条件が違う、その違いが成長や開花の模様の違いに相関するようだ。
鳥餌果実については、秋も深まると、折々そんな話題が出てくる。
今冬はミカンの実が豊作。
ザルひと籠分は、知り合いに提供した。
が、残りの半分は、自分のためにと残しておいた。
そのうち、冬の真っ盛りとなり、雪に埋もれる庭のミカンの木から収穫するのが億劫になった。
数個、残して収穫するつもりが、二十個ほどのミカンの実全てを鳥餌果実として残すことになった。
今冬は、柿の木の実はついすべて収穫したので、子守柿となる柿の実がない。
そのお詫びのしるし、というわけでもないが、ミカンの実は豊富に残すことにしたのだ。
今日、見てみたら、ミカンの実は一個も残っていない。
見事なほどに食い散らされている。皮だけが枝に、木の根元に哀れな姿を晒している。
悔しいのは、ミカンの実を啄む光景を写真に収めるという魂胆があったのに、一度も叶わなかったことだ。
なので、貪ったのがカラスなのか、ハトなのか、ムクドリなのか、ヒヨドリなのか、スズメなのか、モズなのか、それとも、もしかして猫なのか、犯人(?)が分からない。
いずれにしろ、鳥さんたち、礼儀を、恩義を知らないのかね。
「鳥餌果実のつもりじゃないのだが」(2010/01/10)
「酸っぱさもちゅうくらいなり木守柿」(2010/01/13)
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