島崎藤村『夜明け前』を、今、読む(13)
半蔵は静の屋とも別名観山楼とも呼ばれる別宅に住んでいる。恵那山に連なる山々を眺められる絶好に位置にある。彼、半蔵が余生を楽しめる人間なら、風物を友としての生活を送るにふさわしい住まいのはずである。
が、鬱々とする半蔵には檻のようなものだった。時折、何を思ったかと周囲に訝しがられるような素行をすることもある。女房のお民にさえ、理解できないことも多い。
→ 「恵那山は長野県阿智村と岐阜県中津川市にまたがる、木曽山脈(中央アルプス)の最南端の標高2,191 mの山」で、「北山麓には中山道の馬籠宿と妻籠宿がある。馬籠で生まれ育った島崎藤村が幼少時代に眺めていた山であり、『夜明け前』で描かれている」。 (文と画像は、「恵那山 - Wikipedia」より)
そうしたある日、長男の宗太が青山の家の整理を言い出す。本陣でも問屋でもない青山には借財が嵩むばかりだったのだ。耕地や、宅地、山林、家財などを売り払って弁済することにするという。
旧本陣の母屋は土蔵を含めて医者に貸すことになる。半蔵夫婦は別居を余儀なくされるし、下女にも暇を出す。宗太ら家族も裏の二階に住み込む。
それだけではなく、宗太は父子別居に際し、誓約書を半蔵に書かせる。一言で言えば、今後一切、家のことには口を出すなという内容である。文面には酒の量も制限されている。
せめてものつもりで遊学に出した和助から便りが届く。英学を始めたいというのである。国学に励んできた半蔵には容易に賛成のならない願いだった。最後には願いを聞き届けたのではあるけれど。
土蔵には妻等の長持などを除けば、先代の吉左衛門と半蔵の二代に渡って集めた和漢の書籍が山となっている。青山文庫とも称すべきものである。
そうした古書が子にさえ読まれずに埃を被るのみ。しかも、その土蔵にさえ半蔵は足を向けることはできなくなった。
その頃には「あ――だれかおれを呼ぶような声がする」などとお民に言うようになっていた。お民には聞えないものである。谷の深みにある隠宅からは狐の声がするばかりである。そうした時には、他のものには聞えない声を半蔵は聞くようになっていたのだ。
← 「永昌寺」 「小説「夜明け前」で登場する万福寺は永昌寺をモデルにしているとされ」、「馬籠宿本陣島崎家の菩提寺として知られ島崎藤村の遺髪と爪が納められている墓碑が建立されてい」る。 (文・画像は、「馬篭宿(木曽路)・永昌寺」より) 「永昌寺 (岐阜県中津川市) 馬籠宿・島崎藤村の菩提寺 お寺の風景と陶芸-ウェブリブログ」には、関連画像が多い。
ある十五夜の日に半蔵は万福寺の松雲和尚から月見の客の一人として招かれた。神葬改典(幕末から維新にかけての廃仏棄釈)以来、万福寺創建の家である青山半蔵から縁を切るに近いような仕儀に至ったはずである。
が、和尚はそんなことは気に掛けない。松雲和尚はどんな事情があろうと、旧(むかし)を忘れない人なのである。
半蔵は、その月見の夜、久しぶりに酒を過ごす。四方山話に花も咲いた。けれど、そんな折にさえ、庭の隅に怪しい影を目にする半蔵だった。逃げるようにして一人、寺を後にした。
隠宅に帰った半蔵は「おれには敵がある」と女房のお民に語る。
「さあ、攻めるなら攻めて来い」とも。
ある日、半蔵は馬篭の町内から万福寺へと足を向けた。その身なりの奇矯さに見咎める者もいる。寺へ何しに出かけるのか奇妙に思うのも当然だった。半蔵の後を追ってみると、本堂の正面にある障子の前に立って袂(たもと)からマッチを取り出す半蔵をそこに見つけた。
「気狂い」と彼らは叫び、障子に燃え移る火を羽織を脱いで消した。放火は大事には至らなかったが、彼らが半蔵の腕を堅く掴んで放すはずもなかった。
半蔵は座敷に取り合えず押し留められ、小用にも見張りがつくようになった。やがて一同の相談の上、座敷牢に幽閉されることになる。
急ぎ帰ってきた娘のお粂にも、そんな寂しい姿を晒す。弟子の美濃落合の勝重にも。医師は半蔵を眠らせる薬を出すだけである。
いつしか半蔵は、見舞いに訪れる誰をも敵と見なすようになる。自分で自分の糞を掴んで投げてよこすのだった。
その半蔵はついに病床にてお民と宗太に見守られて息を引き取った。享年五十六であった。五人ある子の中で最後を看取ったのは宗太のみ。お粂すら臨終には間に合わなかった。
葬儀は間借り主の医師の好意で旧本陣宅である母屋ですることが出来たのは、せめてもの慰めだったかもしれない。
が、埋葬の場所で一揉めする。当初、万福寺山麓の寂しい場所が予定されていたのだ。が、弟子等の意思で改めて相談することになる。そうした中、雨の葬儀、通夜となった。明治十九年十一月二十九日の夜は更けていったのである。
→ 「雪の藤村記念館」 (2013-1-28) (画像は、「藤村記念館公式ホームページ - 藤村記念館へようこそ」より。愛らしい燕の姿や、その巣の写真も載っている)
それにしても半蔵が何故、寺を焼こうとしたのか、誰にも訳が分からない。埋葬の場所を確認に万福寺行った勝重ら弟子に松雲和尚は語る。寺を半蔵は学校にしようとした中に松雲和尚は寺の全くの廃仏の意思を読み取っていたというのである。寺を焼くというのは、半端に終わった維新の復古にやり場のない憤懣を覚えた半蔵の実直すぎる衝動の結果だったというのである。
和尚はつくづく無常を思い知ったとも語った。そして七十という齢(よわい)を期して、長途の旅に登る決心をも半蔵の弟子等に示すのだった。
「さあ、もう一息だ」
墓掘り男たちの声である。弟子等の見守る中、寝棺を横たえる深い穴を掘る鍬(くわ)の音だけが響くのだった。
(『夜明け前』第二部 終)
(01/09/06)
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