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2013/02/19

杉の切り株顛末

 今月初め、我が家の守り神的存在だった、大きな杉の木を切った。
 幹が縦に罅割れ、倒壊の恐れが高まったからである。
 日に一度は庭を見て回るのだが、天辺が断ち切られた松、幹を残すのみの杉と、風景は様変わりし、淋しい限りである。

Sscn2508

 杉などを断ち切る羽目に追い込まれたのは、最初は3年前の台風のためだった。
 強風が吹き荒れ、帰宅したら隣家のご主人から電話があり、お宅の杉の木が倒れ、我が家の壁に倒れかかっている、と云われた時は衝撃だった。
 実際にその光景を目にした時は、愕然の一言である。

 それから我が家の大きな木が気になり出し、まず、蔵の屋根や壁面に擦れ始めている、内庭の松の巨木が焦点となった。
 この松の茂った枝葉は、屋根瓦を擦るだけじゃなく、車道に食み出し、風が吹くと松葉などが大量に散らばってしまう。被害は車道だけじゃなく隣家の庭にまで及んでいた。
 松は天辺の5メートルほどをカットした。まるで首をちょん切られたサムライのような、哀れな姿を今も晒している。
 いつかは、幹の天辺も含め、新たな枝葉が生えはじめることを祈っている。

 杉も、台所裏にある中くらいの(一階の屋根の上に顔を覗かせるくらいの)幹は直径にすると十数センチほどの3本について、枝葉をほとんど刈り取った。
 台所の屋根に枝葉が擦れていて、且つ、屋根と杉の枝葉が接していることで、台所の屋根の雪が溜まりやすいし、雪解けの際もなかなか滑り落ちないのだった。

 そして、今回の杉の木の大掛かりな伐採である。
 これも、当時の日記に詳しく書いたように、幹が縦に罅割れて、降雪や風でいつ倒れてもおかしくはなかった。
 倒壊の危機は脱して、安堵はできたけれど、杉、松などが断ち切られた光景は、幾度見ても、慣れるものではなく、惨状と表現するしかない。

Sscn2509

 ところで、二階建ての屋根の上に顔を覗かせるほどの杉の木だったが、今は一メートルほどの幹を残すだけである。
 断ち切った幹や刈り取った枝葉も、その作業の当日、業者に引き取ってもらった。
 処分するのにも、費用が掛かる。

 このうち、特に幹が気になっていた。
 枝葉はともかく、杉の木の幹は何か使い道はないものか。
 で、今日、ふと、「杉 切り株」をキーワードにネット検索してみた。
 すると、トップにまさに「丸太の切り株、木の輪切りの販売」なんてサイトが浮上してくるのだった。
 この頁を覗いてみると、杉の切り株にはいろいろ用途があると思い知らされた。
 というか、再認識と云うべきかもしれない。
 商品としての切り株は、写真でも、実物でも目にしたことがある!
 ということは、同じ切るにしても、計画的に切れば商品にもなりえたということだ。
 
 尤も、2月初めに切った杉の木は、幹が縦に罅割れてしまっていたので、幹を輪切りにしたところで、商品的価値は薄いのは認識せざるを得ない。
 やはり、処分するしかなかったのだろう(引き取った業者がどう処分したかは不明である)。

Sscn2528

 切り株の商品的価値はともかく、例えば、「諏訪神社施設案内 袂杉の切り株」などを覗くと、「真頂院の和尚が諏訪(長野県)から両方の袂に入れて持ち帰り、神社の前後に植えた杉苗が育ったものです。 現在は、切株だけが本殿の裏に移され保存されてます」などとある。

 こちらは諏訪神社という由緒ある神社で我が家の貧相な杉と同列に論じるわけにはいかない。
 ただ、外見や値打ちがどうだろうと、我が家の守り神的存在だった杉の木なのだ。
 切り株を根っこも含め残しておくことには、我が家的な意味合いはあると信じる。
 切り株の表面に蓋をしておくことは、意味があると信じたいのである。

 小生自身が杉の木の守り神になれなかった不明を戒めるためにも切り株は残さねばなるまい!

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