『早世の天才画家』(酒井忠康著)より
酒井 忠康著の『早世の天才画家―日本近代洋画の十二人』(中公新書)を今日にも読了しそう。
車中での楽しみに持込み、読んでみた。
← 岸田劉生「赤りんご三個、茶碗、ブリキ罐、匙」(1920年) 岸田劉生といえば、一連の麗子像や自画像なのだろうけど、小生には、何と言ってもこういった静物画。「赤りんご三個、茶碗、ブリキ罐、匙」に尽きる。大きな画像が見つからなかった。(画像は、「北海道立近代美術館 大原美術館展 モネ、ルノワール、モディリアーニから草間彌生まで」より)
やや著者としては思い入れたっぷりすぎる叙述が多く、読み手が絵や情報から思い入れる余地が少なかった気がする。
多くは著者の若い頃に書いた、感慨深い文章を集めたのだろうけど。
佐伯祐三や、二十数年前、神奈川県立近代美術館の館蔵品で観た松本竣介、小出楢重らは、既に本ブログで扱ったことがあるので、本稿ではそれ以外の画家の作品を紹介(鑑賞)してみる。
→ 関根正二(1899-1919)「信仰の悲しみ」 (画像は、「OHARA MUSEUM of ART ― 作品紹介>主な作品の紹介>日本の絵画と彫刻>関根正二」より) 「関根が幻想に見た女性たちを描いたもので、関根自身がこの作品について「朝夕孤独の淋しさに何物かに祈る心地になる時、ああした女が三人又五人私の目の前に現れるのです」と語ってい」るとか。
本書によると、日本で人気の佐伯祐三だが、二度までも滞在し、その死をパリで迎えたのだが、パリではそれほど評価されていなかったとか。
ちょっと意外な気がした。さもあらん、なのだろうか。
← 酒井 忠康【著】『早世の天才画家―日本近代洋画の十二人』(中公新書) 以下の画家たちを扱っているので、車中での楽しみに読んでみた。
雲のある自画像―萬鉄五郎
写実の森のなかで―岸田劉生
運命の画家―中村彝
心象の回路―小出楢重
宿命の十字路―村山槐多
幻視の画家―関根正二
造形の思索者―前田寛治
半開きの戸口―佐伯祐三
抒情詩圏の画家―古賀春江
透明な響きを―三岸好太郎
呪術師の部屋―靉光
暗い歩道に立つ―松本竣介
→ 中村彝(1887-1924)「エロシェンコ氏の像」(1920年/油彩・キャンバス/45.5×47.2cm 東京国立近代美術館)「当時、新宿中村屋に身を寄せていた盲目の口シア人詩人ワシリイ・エロシェンコの肖像である。中村彝とその友人の画家鶴田吾郎の二人が同時に彼をモデルとし、彝のアトリエで8日間をかけてそれぞれ描いた。この詩人はその天衣無縫な人柄と美しい風貌によって出会う人をみな魅了し、また、杖も使わずに坂道を駆け下りられるほどに冴えた感覚を持っていたという」。
← 古賀春江(1895 - 1933)「煙火」(1927年、川端康成記念会所蔵) 「大正期に活躍した日本の初期のシュルレアリスムの代表的な洋画家」だというが、この作品を見ても、とても大正期の作品とは思えない斬新な感覚を感じる。 東京在住時代、「古賀春江・創作のプロセス/東京国立近代美術館」(1991年)など、鑑賞するチャンスはあったのだが、当時は小生が一番、気鬱の状態に落ち込んでいたのだ。動く気力が湧かず、鬱憤を創作にぶつけていた。 (画像は、「古賀春江 - Wikipedia」より)
→ 三岸好太郎「オーケストラ」 (油彩・キャンバス●1933(昭和8)●893×1146mm●独立美術協会第3回展) 小生は、この作品を本書を読んで初めて知った。「この線描は、厚塗りの白絵具層を金属棒などの尖端でひっかいて下塗りの黒地を出す手法によるものである。あたかもタクトを操るかのように、三岸の筆はいささかの停滞も示さず画面を縦横に動き回っている」。(画像は、「三岸好太郎美術館 オーケストラ」より)
← 靉光《眼のある風景》(1938年 東京国立近代美術館) 「多くの作家が稀薄な夢を捨て、与えられた夢魔を、まことしやかに、軍部から配給された絵の具で、なぞらえ描きはじめたとき、靉光はその体質のような物質的レアリティをのみ、転換の軸として、想像力の夜の世界を抜けだした」(ヨシダ・ヨシエ氏) 何処かゴヤを想わせる迫力を感じる。(画像は、「展覧会情報生誕100年 靉光展」より)
関連拙稿:
「小出楢重:日本の日常の中のヌード」
「佐伯祐三…ユトリロのパリを愛してパリに果つ」
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