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2013/02/24

島崎藤村『夜明け前』を、今、読む(12)

 欧米の目は木曽の山の中にも既に及んでいる。日本政府の依頼を受け、英国のヴィカアス・ボイルを先駆とし、ついで明治六年に来日したグレゴリイ・ホルサムが鉄道敷設を目的に木曽路などを測量・研究し始めたのである。

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→ 「 五万石 千里山荘」 「古民家の古材をもちい移築した合掌造り」の山荘。「日本庭園を含む広大な敷地には本館、別館、茶室などを揃え」、「川魚や山菜などを盛りこんだ会席膳をご堪能いただける」とか。過日、ここで法事を営んだ。故人の遺徳を偲びつつも、山荘の風格に、密かに、遥かな木曽の本陣を想ってもいた。

 ホルサムが実際に木曽の馬篭の宿に泊まったのは明治十二年である。
 東山道が鉄道敷設にふさわしいと政府に上申したのはボイルである。東海道は海に面し、海運がすでに便利である。それに比して交通の不便なる東山道に鉄道を敷くことの意義を明確にしたのだ。

 ボイルの木曽などの観察は鋭い。分水嶺の地であることも見抜いている(フォッサ・マグナ)。
 ボイルの観察の鋭さを再認識しつつ、馬篭の宿でホルサムは鉄道敷設の齎す、この地の変貌を思うのだった。もっとも、木曽の村人はそんな思惑など知らない。ただただ珍しい異人に驚き興がるばかりだったけれど。

 半蔵は妻のお民も含めて家族を馬篭に残し、一人、飛騨の水無神社に赴いていた。四年の歳月の中で二度ほど帰郷しただけだし、その間、お民が一度、飛騨を訪ねたくらいである。
 家督を息子に譲り、隠居して飛騨の神社に向かったのだ。
 半蔵の熱い覚悟と胸中など、飛騨の人々は知らない。むしろ一人熱くなる宮司の半蔵を笑うくらいでもある。

 その半蔵が四年あまりの飛騨の生活を後に、帰郷した。が、親友の伊之助は既に万福寺に眠る人である。飛騨から県境に付くと、そこには「長野県西筑波郡神坂村」という里程柱があった。
 飛騨での四年のうちには大きな事件もあった。西南戦争が勃発していたのである。例の木曽谷の山林問題も片付く見通しも付いていない。

 ところで、西南戦争の起きた原因は何なのだろうか。事件を引き起こした中心人物の一人は桐野利秋である。各藩混交の軍はもともと統制がほとんど取れていなかった。もとより本省の命令が行き届くはずもない。
 また司令長官である谷干城(たにたてき)に対し、土百姓の集まり、農兵の集まりたる兵隊を嫌う桐野は相容れないのである。ついに明治十年、兵火を相見(あいまみ)えることになる。

 西南戦争は悲劇の戦争といっていいだろう。何しろ同士討ちの戦いなのだから。しかも、そこに西郷隆盛までが加わったのだ。維新の途上であまりに大きな犠牲を日本は強いられたのだった。しかし、旧習に服しようという勢力とは断固、戦わないわけにいかなかったのかもしれない。

 飛騨において半蔵は空しく過ごしたばかりではない。何しろ、飛騨の位山(くらいやま *)は平安朝の昔より、山は位山とされ、歌枕にさえなるほどの山だった。その近くに水無神社はあるのだ。
 その地には、見るべき人物もいた。田中大秀(おおひで)である。本居宣長の高弟であり、宣長の嗣子本居大平の学友であり、橘曙覧(たちばなあけみ)の師でもある。平田篤胤と同時代に、この飛騨にあって古道に目覚めていた人物でもあった。
 『竹取翁物語解』の著述も残しており、「笑い」の国学者でもあった。村人への手紙に次のような文句もある。
 

 オドレヤオドレヤ。オドルガ盆ジャ。マケナヨマケナヨ、アスノ夜ハナイゾ。
 オドレヤオドレヤ。

周囲との軋轢もあったろうに、「かなしみの奥のほほえみ、涙の奥の笑い」を時代に先駆けて、示した人でもあると半蔵は思う。

 恵那の地にあって半蔵は帝の東山道の御巡幸の話を聞く。帝自身が西南戦争に傷ついた国の隅々を御幸したまうというのである。
 しかも、その帝は青山の家が旧本陣だったという格式もあることゆえ、行在所(あんざいじょ)となるべきと指定されたのである。先発隊には山岡鉄舟の一行も来た。道路の補修なども行われる。
 当然、馬篭の主だった人物には様々な役割を当てられる。半蔵の息子の宗太にも。 が、隠居であるとはいえ、半蔵には何の沙汰もない。彼は詩歌の献上を差し許されただけだった。

 その半蔵は過日の献扇事件が尾を引き、半蔵がまたとんでもないことを仕出かさないかと、村のものに気遣われるばかりだったのだ。古い歴史のあるこの地方のことを供の者に説き明かす役割さえも彼にはないのだった。

 明治十四年、半蔵は五十一歳である。青山の家からは森夫と和助を東京へ送り出した。東京で遊学させるためである。東京には嫁いでいる姉のお粂がいる。その姉を頼りに送り出すのである。宗太が二人の弟らを東京へ送った。
 半蔵は学問好きではあるが、無才無能を自覚しないでもない。だからこそ、息子等には自分の先にまで行ってもらいたいのだった。平田一門数千人の中には師を超える人物は現れなかったことも、彼を寂しい思いに駆り立てていたのかもしれない。
 彼、半蔵はいつしか酒に飲まれる自分を見出していたのである。

                                     (01/09/02)


(*)「位山(くらいやま)は、飛騨高地の中央に位置する岐阜県高山市の標高1,529mの山」で、「現在でも天皇即位に際して位山のイチイの笏が献上されている。古来より霊山とし崇められている。新古今和歌集で源通親(土御門内大臣)が、「位山あとをたづねてのぼれども 子を思ふ道になほ迷ひぬる」と詠んでいる。天孫降臨、天の岩戸、両面宿儺などの伝説のある山である」。

島崎藤村 「夜明け前」の地を歩く|旅する「岐阜の宝もの」」:

「木曾路はすべて山の中である」。この有名な書き出しではじまる近代文学の名作「夜明け前」ゆかりの地をめぐります。幕末維新の動乱期を描いた物語の中に登場する、中山道の景色や人々の暮らしに思いを馳せながら歩いてみましょう。

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