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2013/02/20

島崎藤村『夜明け前』を、今、読む(11)

 青山半蔵は不思議な縁故から教部省御雇いとして奉職する身になったのである。田中不二麿の勧めによるものだった。

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→ 青木繁作『わだつみのいろこの宮』(1907年 油絵 180.0 cm × 68.3 cm  石橋美術館) (画像は、「青木繁 - Wikipedia」より)
 半蔵が上京したのは、どこかの古い神社へ行って仕えたい、その手がかりを得たい一心だった。が、徒食を続けることが心苦しくなっている中、平田一派が残る教部省(神祇局の後身)に奉職することを決心したのである。

 が、その教部省を半蔵は半年で辞めることになる。現実の役所は、彼の理想には遥かに遠いものだった。
 役所にいると、ある時、同僚の雑談が半蔵の耳に入ってきた。それは彼の尊信する本居宣長翁のことについてだから聞き流すわけにはいかない。

 その同僚の又聞きの話によると、本居翁の弟子の日記の中に見出された話だという。
 ある日、本居の弟子達が師を生き神様だと話していると、給仕をしていた下女が泣き出したのである。その仔細を下女に聞くと、その活き神様が毎晩のように自分の寝所に見える。うるさいので、昨夜は足蹴にしてやった。が、立派な活き神様を粗末にしては罰が当たるのではと、恐れ泣いたのだという。弟子もその話を下女から聞いて呆れたというのである。

 そんな話を聞いて、同僚は皆笑った。そんな者にかぎって、人格者だ、と。

 その「人格者」が一同を笑わせる。半蔵は青ざめる。本居宣長があって、平田篤胤がいる。そうした先駆者がいて、今の教部省、今の時代があるのではないか。半蔵は皆をどやしつけて、それきり役所を出てきてしまったのである。

 半蔵からすると本居宣長というのは、「多分に女性的なところを持っていた心深い」先輩だった。後に続く平田篤胤は、情意を胸に包みながらも、終生つつましく暮らしていて、内弟子ですら、近づき難くもあった。役所の同僚等は本居の仮面を剥がした、活神様の裏面の放蕩を暴いたと、したり顔なのである。

 本居宣長とはいかなる人物なのか。半蔵が役所を辞めたことを聞いてを訪ねてきた医者の金丸恭順は言う:
「本居父子の本領は別にある。宣長翁にあっては、深い精神にみちたものから単なる動物的なものに至るまで――さては、源氏物語の中にあるあの薄雲女院に見るような不義に至るまでも、あらゆる相(すがた)において好色はあわれ深いものであった。いわゆる善悪の観念でそれを律することはできないと力説したのが宣長翁だ」
「『玉の小櫛』を書いた翁を想像し、歴代の歌集に多い恋歌、または好色のことを書いた伊勢、源氏などの物語に対する翁が読みの深さを想像し、その古代探求の深さをも想像して、あれほど儒者の教えのやかましく男女は七歳で席を同じくするなと厳重に戒めたような封建社会の空気の中に立ちながら、実に大胆に恋というものを肯定した本居宣長その人の生涯に隠れている婦人にまでその想像を持って行って見た」

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← 「本居宣長自画像」 「当時、既に解読不能に陥っていた『古事記』の解読に成功し、『古事記伝』を著した」。 (情報や画像は、「本居宣長 - Wikipedia」より)

 半蔵が籍を置いた頃には、教部省に課せられた企てが失敗に終わることが、教部省の中の役人にも気付かれていた。神官僧侶を合同して、広く国民の教化を行うという使命は、教義も何も下から違う中、土台無理な話であった。結果、役所では各派からの問い合わせに答えるだけの些事をなすに止まるのだった。

 役所を辞めた半蔵がある日、懇意にしている医者の金丸恭順の下を訪ねると、田中不二麿の計らいもあり、彼に飛騨水無神社の宮司に推薦するという話のあることを知る。この神社は格式からいっても、申し分のないものだった。
 ただ、いかんせん、郷里より遥かに遠い。辺鄙の地そのものに感じられている。半蔵の胸のうちでは迷いがある。誰かが飛騨行きに反対したら止めたかもしれない。が、周囲の誰もが、その話を半蔵が受けるもの(受けたもの)と思い込んで疑わない。半蔵の師匠である平田鉄胤も、一生に一度はそういう旅もよかろうとあっさり言う。

  横浜開港当時、膨大な量の小判など(良質の金で鋳造されていた)が流出し、質の悪い洋銀が流入した。そのように、今、東西文明の交錯する上に似たようなことが起きている。自分達の古い金貨(大切な何か)が流れ出し、代わりに入いる新しい文明が、何ほどのものなのか、分からないのである。
 そうした文明開化の声の喧しい中、半蔵の水無神社宮司拝命は表沙汰になる。

 在京するのも僅かとなったある日、半蔵は帝の行幸のあることを知る。彼はまだ薄暗い朝、水垢離を執り、羽織袴に改めて帝の通る神田橋へ向かう。彼はもう、水無神社宮司に決まっていることもあり、何か身の引き締まる思いをしているのである。
 帝は侍講である平田篤胤に師事したこともある。二十三歳と若い。征韓論も忘れられていない頃でもある明治七年のことであった。
 半蔵は持参した扇に歌を一首、書き付けている。

 蟹の穴ふせぎとめずは高堤(たかづつみ)やがてくゆべき時なからめや  半蔵

 この扇子を手にして帝を待っていたのである。
 が、彼は先触れの近衛騎兵の一隊の馬蹄の音を聞くうちに、強い衝動に駆られた。彼は、第一の御車馬を御先乗(おさきのり)と心得、群集の中から進み出て、持参の扇子を投進し、下がって、額を大地につけ、袴のまま、そこにひざまずいた。
「訴人だ、訴人だ」の声が上がる。
 いわゆる献扇事件を半蔵が引き起こすのである。
 実は第一の御馬車に帝がいたのだ。

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→ 『古事記伝』再稿本(本居宣長記念館蔵・国重文) (画像は、「古事記伝 - Wikipedia」より) 「『古事記傳』(現代語訳)」参照。

  半蔵は囚われの人となり、数日を、裁判などのため、入檻(にゅうかん)を命じられる。
 裁判の中で、彼の万感の思いを告げることもならない。平田派の同門の者が東奔西走する一方、彼は本陣問屋であり庄屋として歯噛みするしかなかった半蔵であった。
 その彼は遠い飛騨の地へ宮司として向かう。それが先輩らに左遷ではないと諭されていても、何か胸に蟠るものがあったのである。彼は自分でも訳がわからず飛び出したのだった。

 やがて沙汰があるまでということで檻からも出される。しかし、半蔵は長い謹慎の時を送るのみだった。
 結果として懲役は逃れるが、贖罪金は科せられた。それ以上に彼が被った衝撃は計り知れない。

 半蔵は、飛騨行きを前に僅か三日ばかりの帰郷をした。彼は四十四歳で隠居の身となることをその間に決心もした。家督は息子の宗太に譲る。あのお粂も嫁ぐ決心を半蔵に告げる。
 彼はいよいよ飛騨へと向かったのである。

                               (01/08/31

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