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2013/01/24

島崎藤村『夜明け前』を、今、読む(8)

 西からは、岩倉具視(いわくらともみ 1825-83)の子息らを総督とする東山道軍がやってくる。江戸城攻撃の一行が木曽を通るのである。半蔵らは、そのための準備を骨身を惜しまずする。松明一万把の仕出しなどを村民を励ましつつ、王師に応じようというのだ。新しい春がもうすぐそこにやってくる、半蔵はそう信じて疑わない。

 新政府は地方の人民の応援なくしてありえない。人民の信頼を勝ち得るために、この度の進発は、「諸国の情実を問い、万民塗炭の苦しみを救わせられたき叡旨(えいし)であるぞ」という触書も出たりする。未だ、諸藩の向背のほどは新政府も測り難いものがあったのだ。

 苛政に苦しめられたものの訴える先は、本陣であると新政府は指定してもいる。あるいは諸藩の藩主等が勤皇の意志を表明すべき場所として指定されたのも本陣だった。庄屋であり問屋をも兼ねる名家である半蔵の本陣の負う責任は重いのだった。

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 やがて向背の明らかでなかった大小諸藩の中から東山道軍へ帰順するものが続々と現れてくる。「旧幕府の大老井伊直弼」の彦根藩士らも参加し、「伏見鳥羽の戦いに会津方を助けた大垣藩」も先鋒を勤める。その背後には尾張藩が率先して東山の進路を開いたことが大きい。「復古の大業を遂行する上にすくなからぬ便宜となった」というのである。その尾州も、内紛の末の選択だった。

 乱れ放題だった社会に統一の曙光が見えるようだった。半蔵は、「一つは日本の国柄であることを想像し、この古めかしく疲れ果てた生気のそそぎ入れられる日の来ることを想像した」「彼はその想像を古代の方へも馳せ、遠く神武の帝(みかど)の東征にまで持って行って見た」

 先鋒の一行は、「宮さま、宮さま、お馬の前に ひらひらするのはなんじゃいな。(略)朝敵、征伐せよとの 錦の御旗じゃ、知らせんか」の声が、太鼓の音や歩調に合わるように聞こえてくる。
 さて、いざ東山道軍を宿場に迎えてみると、その総督を守るのは、諸藩の武士というより、例えば土佐で言えば、「多分に有志の者で、郷士、徒士、庄屋、浪人などの混合して組み立てた軍隊であった」
 半蔵に向かって、「いや、君のいうとおりでしょう。王事に尽くそうとするものは、かえって下のものの方に多いかもしれませんね」と語りかける者もいる。

 やがて東山道軍が木曽街道の終点近い板橋に達したという知らせと同時に、江戸城攻撃の中止までが馬篭の宿場に伝わってきた。「すでに王政を奉還し、将軍職を辞し、広大な領地まで」投げ出した徳川慶喜は江戸城にいない。その恭順の意は局外中立の位置を守る外国公使も認めている。そんな中で江戸城を攻めるわけにいかない。慶喜は全てを捨てることで江戸の市民を救ったのである。
 世に、江戸城攻撃を中止せしめたのは、大久保一翁、勝安房、山岡鉄太郎らの諸氏の力が大きいとされる。しかし、主戦派の小栗上野(おぐりこうずけ)の職を剥いで謹慎を命じるという固い決意が慶喜になければ、中止がありえようはずはなかったのだ。

 東征軍が江戸城に達する前日、全国の人民に告げる新帝の言葉があった。「万機公論に決せよ」とか、「旧来の陋習を破って天地の公道に基づけ」とか、「知識を世界に求め大いに皇基を振起せよ」などとある。

 江戸城の明け渡しに際しては、城を受け取る役目を将軍家に縁故の深い尾州が負った。「錦旗を奉じた尾州兵が大手外に進んだ時は、徳川家の旧旗本らは礼服着用で、門外まで出迎えたという。その江戸城内には、静寛院(せいかんいん)さまや天璋院さまらが最後まで残っていたという(静寛院とは、和宮さまのことである)。
 既に京都では遷都論も起っている。
 また、徳川将軍の処分について諸侯に意見を求められている。慶喜を殺せという意見を抱くものも多い。それだけは長年、慶喜の背後にあって京都の守護を自ら任じてきた会津武士は認められない。伏見鳥羽の戦さに敗れた彼らは逆賊の汚名を負っている(従って、会津方の武士らは、東京招魂社、後の靖国神社には祀られていない)。どれほど京都を守護してきたことか知れないのに。

 武装解除を認めない一群は、上野東叡山にこもり、官軍と戦った。彰義隊の戦士も会津へ脱走する。京都では奥羽征討のうわさが持ちきりとなるのだった。
 そんな中、財政困難な新政府は戦費の調達のためもあって、新紙幣の発行に踏み切る。それは諸物価の高騰を招くことになる。「会津の方の戦争に、こんな物価の暴騰に、おまけに天候の不順」と半蔵らを悩ます種は尽きない。
[ちなみに、豊太閤の遺徳を慕う京大阪の町人等が徳川幕府打倒の運動に賛意を表し、莫大な戦費を支出して、新政府を助けたと、記述することを藤村は忘れていない]

 やがて百姓の反乱が起きる。半蔵は最初、半信半疑だったが、事実だったのである。半蔵にしてみれば、理解が出来ない。東山道総督一行が見えた時、百姓が窮迫していたのだとしたら、訴える機会はあったはずではないかと思うのである。その時に訴えないで、今になって一揆を起こすとは…。しかも、その一揆には馬篭の百姓も加わっているらしい…。
 が、半蔵には百姓の塗炭の苦しみなど見えていなかったのである。問屋や名主を目の敵(かたき)にする百姓は多いのだ。問屋の中には、その家の前を百姓が通る際には、草履を脱がないと許さないものだっていた。うらみつらみは百姓側に、山ほどある。だから、世の中の変化を感じて、すぐに打ち壊しに出かけるのも無理はない。
 半蔵は彼の村の気の置けないはずの百姓に、一揆などの事情を聞こうとする。彼らは、もとは、旧い主従の関係の間柄だったのだ。

 その彼らの口も半蔵には重い。長い時の積み重ねの中で、半蔵には思いも寄らない辛酸を彼らは嘗めてきたのだ。やがて半蔵の前を去り際に、百姓の一人は半蔵に言い残す。
「だれもお前さまに本当のことを言うものがあらすか」
 維新も百姓らの闇には全く光を当てることができない。維新になって戦地に駆り出される駒になっただけなのだ。
 半蔵は嘆く。ようやく、武士の横暴がまかり通ってきた世が変わるんじゃないか。
「たとい最下層に働くものたりとも、復興した御代の光を待つべき最も大切な時と彼には思われる」のだった。


                                    (01/08/19

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