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2013/01/05

島崎藤村『夜明け前』を、今、読む(6)

 さて、一旦は参勤交代の制を実質的に廃した幕府だったが、幕府の権威の失墜、更には江戸市中の急激な衰亡、治安の乱れ、そして権威の復活を求め、復活を画するのだった。

 一方、長州再征のため将軍(家茂)自らが出御あそばされる事になった。この進発には各藩から反発の声が上がる。反対の建白書も方々からくる。長州による京都包囲については長州は既に尾州等に責めを問われ、老臣や参謀等の処刑など、謹慎の意を示している。その上の進発はなすべきでないというのである。敢えて長州を追い詰めれば、血を見ずに鎮静した争いが、一気に騒乱に至ってしまう恐れもある。

 が、幕府は耳を貸さない。己に背くものは厳罰を持って望む所存だし、日光大法会の余勢もある、東照(徳川家康)二百五十回忌を期に、慶応元年と年号も改めた。
 幕府は回天、回陽と命名されるべき軍艦の準備中でもあった。 

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 つまり、幕府は将軍じきじきの進発となれば、諸大名も改めて恐れ入るに違いないと思っていたのである。
 幕府が猫であるかどうかは別にして、将軍の進発は長州を必要以上に追い詰め、窮鼠の様に駆り立てたのである。
 まさにこうした時、幕府は新たな難題を抱え込むことになる。過ぐる四国艦隊への長州砲撃で、長州は三百万両という莫大な賞金を負う。
 その長州はそんな賞金を支払うつもりもない。幕府と朝廷の命を受けて発砲したものであり、幕府が支払うべきだというのである。

 さらに神奈川、長崎、函館に続き、新潟、加えて江戸、大阪、兵庫を開く約束をも安政五年の江戸条約でなしている。が、攘夷熱が沸騰する中でなかなか開港に踏み切れるはずもない。が、諸外国の開港の要求は高まるばかりである。一旦は引き伸ばしに成功しても、いよいよの時期は迫ってくる。
 四国の公使は幕府では埒が明かないなら、朝廷に直接談判に及ぶべしと、兵庫の港に入る。中には大阪沖まで来るものがある。長州征伐どころの騒ぎでは本来なかったのである。
 ところが四国連合艦隊の公使と談判に及んだ外国奉行の筆頭である山口駿河らの交渉に納得できない朝廷は、安部豊後や松前伊豆閣老を罷免するのである。朝廷に断りもなく幕府が勝手に外国と交渉したという名目である。前代未聞の仕儀だった。ほとんど将軍の権を奪うにも等しい行為だった。その家茂は将軍を辞職するに至った。

 いよいよ一橋慶喜の登場となる。

 慶応元年十月五日、一橋慶喜らは外国条約の勅許を奏請する。この奏請は、諸侯の藩主ではなく、主だった家来が御所に召され意見を聴取されての結果だった。そしてついに勅許がなる。長い鎖国の解かれる日が近づいたのであった。
 朝廷に罷免された幕府の役人(山口駿河)がある日、用があって半蔵のいない馬篭本陣に宿を取る。夜、戻ってきた半蔵に外国奉行だった役人は語る。
「……いよいよ条約も朝廷からお許しがでましたよ。長い間の条約の大争いも一段落を告げる時が来ました。井伊大老や岩瀬肥後なぞの骨折りも、決してむだにはならなかった。そう思って、わたしたちは自分を慰めますよ。やかましい攘夷の問題も今に全くなくなるでしょう。この国を開く日の来るのも、もうそんなに遠いことでもありますまい」

 半蔵は目の前にいる人物が正に骨を折った一人であることも、まして閉門謹慎の日を送るために江戸に向かっているとも知らない。ただ、衰えいく幕府を懸命に支える人物がここにいると思うだけである。
 やがて老いた父、吉左衛門を傍にする、半蔵の耳にも、「従来会津と共に幕府を助けて来た薩摩が公武一和から倒幕へと大きく方向を転換し、薩長の提携はもはや公然の秘密」であることも伝わってくる。
 その年の夏、強い雨などにより凶作の予感が半蔵の村に漂う。一方、将軍(家茂)の薨去もあり、戦地にあった諸藩の兵が続々戦地を去る。将軍の薨去には一橋慶喜も関与との噂が流れたりもする。
 国内が混乱する中、フランスは幕府に取り入り、イギリスはこの国の四分五裂を待っている。既に諸外国は深くこの国に入り込んでいるのである。

 幕府は権威を復活させることはついになく、無力を暴露し、諸藩が勢力の割拠状態となり、戦国時代の再現もかくやと思われる状態にこの国はなっていた。
 その中、半蔵らとしてできることは、諸侯の勤王化に尽力する。といっても、半蔵らに実際にできることは、南美濃地方にある人たちと連絡を取り合い、足元を固めるのみである。
 そこにたかれらの子供とも言うべき、村人が、家族がいる。半蔵は時代が時代だからといって、家を飛び出すわけにはいかないのだ。

 胸の騒ぐ中、半蔵の枕もとには本居宣長の『直毘の霊(なおびのみたま)』がある。時代の混乱の中、復古の志を先哲に問うのだった。
 武家以前の時代へ。御世御世の天皇の政(まつりごと)、神の御政へ。そこには神の道があったと宣長は教えている。否、道という言挙げ(ことあげ)さえもさらになかった自然(おのずから)へ。
 自然へ帰れと教えたのが宣長(の『直毘の霊』)だと半蔵は思う。「直毘(なおび)とはおのずからな働きを示した古い言葉」で「よく直くし、よく健やかにし、よく破り、よく改めるをいう」のである。「翁(おきな)の言う復古とは更正であり、革新」である。

 半蔵は国学者の言に力を得て述懐する。
「……、われわれは下から見上げればこそ、こんなことを考えるのだ」
 さて、一橋慶喜は徳川家を相続し、徳川慶喜となる。既に多年内外の政局に当たっている人物が矢面に立つのである。彼は矢継ぎ早に改革の手を繰り出す。旧制の一大改革をしたのである。
 同時に様々な誤解にも関わらず、慶喜は水戸の御隠居の子でもある。尊王の志を残した烈公の血をこの人も受け継いでいるのだ。つまり天皇の御代を実現することで、海外の圧迫に対抗しこの国の独立を維持しようと考えている。

 一方イギリスの後押しもあり倒幕に走る薩長。この形勢を見た松平容堂は王政復古の建白を慶喜にする。大政奉還の機会が訪れたのである。慶応三年十月、ついに政権返上を奏聞する。
 その頃、馬篭の宿でも「ええじゃないか」の輪が広がっていた。「謡(うた)の囃しに調子を合わせて、おもしろおかしく往来を踊り歩く村の人たちの声」が起きたのである。
 それには様々ないろは唄の文句や滑稽な言葉などが挟まれて囃し立てられるのが流行った。今で言えば「明日がある」の流行に比せるだろうか。今日の日を諦め、不安を掻き消し、あるいは吹き飛ばして、見えない明日に願いをかける。時代が根底から崩れ、新たな秩序の形が庶民には見えないのである。きっと知識人にも。

 そうした中、村の鎮守のお寺とも言うべき万福寺の鐘がなる。寺の住職は長年、方々を流れ歩き、諸国遍歴の修行を経て、やがて子の村に戻ってきた人物だった。爾来、戻ってきた安政元年以来、その松雲和尚は一日も欠かさず鐘楼に登って鐘を撞き鳴らすのだった。

「今も、同じ静かさと、同じ沈着(おちつき)とで、清く澄んだ響きを伝えて来ている」
一方には「ええじゃないか」の卑属と滑稽、一方には「行いすました閑寂の別天地から来る、遠い世界の音」
 この憂国の士が命をかけて奔走する時代に、こういう和尚のような人も生きていたかということは彼を驚かす。
 王政復古は成った。ひどい血も流さずに。ともかくも、今一度、神武の創造へ、遠い古代の出発点へ、その建て直しの日がやって来たことを考えるだけでも半蔵の目の前には雄大な気象が浮かぶのだった。
 篤胤の『静の岩屋』の中に見つけておいた先師の言葉が半蔵の胸に浮かんでくる。
「一切は神の心であろうでござる」

[『夜明け前 第一部下巻了』](01/08/01)

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