島崎藤村『夜明け前』を、今、読む(10)
島崎藤村作『夜明け前』も今回から、いよいよ第二部の下巻となる。明治である。
明治の世になり制度の改正は混乱を伴わずにはありえない。
木曽の地にある半蔵にも、例えば地租改正による非常な苦難の最中にあった。海の民なら海での漁、野の民なら米作りが枢要であるように、木曽の山の民にとって、山の木々に絡む様々な生業は命である。
→ 渓斎英泉「木曽街道六十九次・馬籠」 (画像は、「馬籠宿 - Wikipedia」より)
が、新しく赴任した役人は地元の事情に疎い。いきなり先祖代々山の民の生業の森や山を、官のものと宣言して、一切、地元の者の陳情を受け付けないのである。尾州藩の役人が権限を持っていた頃は、細々と事情を忖度していたのも、昔のことになってしまった。
筑摩県の支庁が木曽福島に設けられ、そこに派出されたのが本山盛徳だった。彼は人民の請いを入れ、伐採を自由にしたら山がたちまち、禿山にでもなると思ったのだろうか。
半蔵は、そうした中、他の仲間と共に嘆願書を提出しようと奔走していたのである。
その頃、地方新聞として名古屋新聞が週報の形ながら木版彫刻半紙六枚の体裁で出されたりしている。その週報は、旧名古屋藩士の田中不二麿の消息をも伝える。あるいは、岩倉具視大使の一行が、特命全権の重大な任務を帯びて日本を出発していた。その中に神祇省から選抜された佐賀県人で国学者の久米邦武がある。こうしたうわさは平田一門の人たちに強い衝撃を与えた。戸長である半蔵も、その一人であることは言うまでもない。
ある日、福島支庁から召喚状が戸長である半蔵に届く。出頭してみると、彼は戸長の職を解かれると言い伝えられる。彼の奔走が本山盛徳らの気に食わなかったのである。
その一方、半蔵の娘、粂(くめ)の婚儀も段取りも相当に進んでいる。それは半蔵の義母の強い意向の働く婚儀だった。義母には半蔵は全く頭が上がらない。家柄が違うのである。また気質も強いものを持った人だった。鬱々としているお粂に半蔵も気掛かりでないわけではない。
それ以上に母親のお民が心配していた。
そうした中、半蔵の先輩である暮田正香が半蔵の家に泊まる。彼、暮田は賀茂神社の少宮司に任ぜられ、西のほうへ下る旅の途中なのだった。
半蔵は正香に一幅の軸を部屋の壁に掛けて見せる。それは同門の士である師岡正胤から半蔵に贈られたもので、柿本大人(かきのもとのうし)像である。本居宣長の筆になる柿本人麿の画像には、宣長の賛が書き付けてある。古事記の研究を残した彼らの大先輩が正香と半蔵の前におり、古代の万葉人を示し、和魂荒魂(にぎみたまあらみたま)を兼ね備える健全な人の姿を見よといい、弟子の弟子らを励ますようでもあったのである。
明治も初期の頃は、平田派の一門も理想に燃えていた。何かが変わるに違いないのだった。
しかし、郡県の政治が始まって、官吏の就職活動が活発になってみると、官僚万能の世の中になるのも、あっという間のことだった。また、ところを得る望みのない士族仲間からは不平の声が募る。征韓の声も高まる一方である。平田一門の志とは現実はあまりに違ってきたのだ。
平田派の全盛には一門は4,000人を数えるまでになった。祭政一致の理想を掲げ、太政官の中に神祇官を生み、その神祇官は一代の文教を指導する立場にあった。
その神祇官は神祇省に改められ、やがて廃される。制度の転変は凄まじいのだった。
明治初期の理想は別の面でも現れていた。岩倉大使の一行に洋学修行のため、五名の女子が含まれていたというのも典型的な例だろう。十五歳の吉益亮子(あきこ)、十二歳の山川捨松(すてまつ)、八歳の津田梅子もいる。田中不二麿が中部地方初の女学校を名古屋に打ち建てるといううわさもあった。文明開化の波が押し寄せているかと思えば、朝鮮征伐の声が激する時代でもあった。
さて、お粂である。土蔵に母のお民が呼びかけるまで入り浸ったりしている。そうしたある日の夕飯後のことだった。お粂の姿が見えず、騒ぎになった。土蔵へ急いでみると、そこに自害を企てた娘、お粂が見出されたのだった。
馬篭の町はその悲劇のうわさで持ちきりである。半蔵はお粂が自害を企てたことを聞いて驚き、にわかに年を取ったようだった。彼は地租改正の混乱で頭が一杯で、娘のことをあまり気に掛けずにいたことを悔やむ。
幸い、お粂の命ばかりは取り留めたのではあるが、妻のお民にも、幾度となく気掛かりを告げられていたにも関わらず、半蔵は構わないできたのである。
そこへ更なる悲報が伝わる。平田篤胤の孫で若先生と呼ばれる延胤が四十五歳で没したのである。篤胤の子供であり、延胤の親である鉄胤は既に七十二歳であり、弟子達に対し、後はお前達が各自で道を辿れという風である。半蔵も今までは問屋でもある本陣を預かって、村(町)の民と共に歩んできたが、これから先、どうすべきか心は動揺してやまない。
馬篭の寺、万福寺を預かる禅僧の松雲も、実は時代の波に揉まれないではいられなかった。しかし、松雲としては時代の転変も、明治の御一新も驚くべきことではない。動揺することなく、日常の修道に思いを潜め、遠く長い目で世界の変革に対するばかりである。
→ 木曾街道六拾九次 妻籠(歌川広重画) (画像は、「妻籠宿 - Wikipedia」より)
その万福寺を半蔵と親友の伊之助が訪ねる。半蔵らは松雲和尚の善良なる心根を知っている。が、筑摩県からの布告もあり、改典を告げる。それは廃仏を意味している。これには松雲和尚も驚かないわけにいかない。
何故なら、この万福寺を建立した人は半蔵の祖先だからである。しかし、驚きつつも、神道を基とする松雲和尚は納得する。万福寺を建立した青山家の祖先ら一部の位牌を残して、後は返却するのである。
東京の風景も変化している。行燈のままの家もあるが、既にランプを使っている家も現れている。衣裳の色にも風俗の好みの変化が見て取れる。薄暗い行燈の下ではそれなりに美しかった衣裳も、明るいランプの下では見られたものではないのである。
自身番もなくなり、見付けも多くは破壊された。武家屋敷の中には、跡が桑園や茶園に変わったところもある。銀座は何処か、浅草六区めいてきている。
駕籠はめっきり減り、人力車や乗合馬車が目立ってきている。洋服を着る人もいる。
髪型も様々で、更に足元も下駄あり、靴ありであれば、洋傘を手にする女性も現れている。
そうした中、半蔵の身にも大きな変化の時がやってくるのだった。
(01/08/27)
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