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2013/01/26

島崎藤村『夜明け前』を、今、読む(9)

 その呼び名には未だ慣れない東京に新帝も無事に着き、東京城の行宮(かりみや)西丸に着御(ちゃくぎょ)したもうたという知らせも馬篭に届くころだった。馬篭の宿場界隈では、子供たちは、戦(いくさ)ごっこに夢中だった。

S953

→ 関秀夫著『博物館の誕生―町田久成と東京帝室博物館』(岩波新書)

 ある子供が長州、別の子供は薩摩、また何処かの子供が土佐とかで、戦ごっこをするわけである。中には尾州の役を引き受けるものもある。が、会津の役にだけは誰もなりたがらない。大事な宝物を褒美にして、やっとしぶしぶ会津を演じる…。無論、みんなで会津を崖っぷちへと追い詰めていくのである。

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 やがて東北方面の平定も済み、率先して東山道軍らと戦地に赴いた山吹藩らの諸隊は伊那の谷に帰り、北越方面に出動した高遠、飯田両藩も帰国を急いでいた。凱旋兵の帰国であり、その通行の際には、会津戦争のうわさ話で木曽も持ちきりである。

 五ヶ月近い従軍から帰ってきた荒町の禰宜(ねぎ)松下千里も本陣などへ帰参の挨拶を済ませ、会津の戦の顛末を詳細に語る。
 敵は会津なのだが、実際には官軍同士が仲が悪かったり、あるいは装備がまちまちで滑稽だったとか、土産話も豊富だった。

 が、笑い話では済まない話題もある。
 つまり、今更、公家さまが朝廷に勢力を占めても、長続きは覚束ない。だとしたら、どの藩が頭を取るかで、駆け引きが激しいのだという。仮に薩摩と長州が戦功を争ったりしたら、建武の昔のぶり返しになりかねない。つまりは戦乱の世という悪夢の再現となりかねないのである。
 この憂うべき懸念には信憑性がないわけではない。半蔵の義兄の伊之助は半蔵の考えを忖度しつつ言う。
「…半蔵さんなら、そう薩摩や長州の自由になるもんじゃないと言いましょう。今度の復古は下からの発起ですから、人民の心に変わりさえなければ、また武家の世の中になるようなことは決してないと言いましょう」

「明治二年の二月を迎えるころは、半蔵らはもはや革新潮流の渦の中にいた」
 版籍奉還奏請の声であり、神仏混交禁止の叫びである。その前に木曽福島の関所も崩れ始める。代官所も廃止。問屋の廃止、年寄役の廃止などのお触れも半蔵らの下に届く。革新というより破壊だった。
 宿場の大改革が始まったのである。様々な問題を相談しあった会所も不要になる。

 そんな中、嬉しいこともなかったわけではない。半蔵の心の師は平田篤胤だが、直接の師は平田篤胤の子息である鉄胤(かねたね)である。そして篤胤の孫に当たる若先生とも呼ばれる延胤(のぶたね)が、宿場改革の最中、木曽街道を通過したのだ。

 延胤は先を急いでいる。半蔵らは見送り方々、中津川へ向かう延胤に同行する。若先生からは鉄胤の噂や中央の動きを知ることができるのである。鉄胤は、東京から一旦、京都へ還御した新帝が再度、東幸するに際し、お供を申し上げる予定なのだと聞く。

 鉄胤(かねたね)は一家を挙げて東京へ移り住むという。新帝の侍講に進み、神祇官の中心勢力をかたちづくる平田派を率い、文教や神社行政に腕を振るう覚悟なのである。
 新帝が親政し、王政復古の中、皇居を東京に移し、新しい都をつくるべしとの声がある。遷都論である。「崩れ行く中世的の封建制度があり、外には東漸するヨーロッパ勢力がある」こんな社会の大変革の中、非常な決心を持って遷都すべきだというのだ。そんな話題も延胤の一行らの間で語られる。

 やがて新政府行政官から出た尾州家の版籍奉還の通知を半蔵は父、吉佐衛門に読み聞かせる。版籍奉還の奏請はあっても、実現の運びに至らない中、尾州家は率先して実を挙げたのだった。
 別の通知では、徳川三位中将に名古屋藩知事を仰せ付けるともある。
 尾州の殿様が、ただの知事になったことを聞いて吉佐衛門は涙を流す。
 その吉佐衛門も夏八月四日に先代の半六の後を追う。七十一歳の生涯を病床で終えたのである。

 葬式も終わり遺骸を先祖代代の墓石の下に埋め、その晩には縁やゆかりのあった人々が集まった。そうした場の半蔵の下へ飛脚が通知を届ける。時局の慌しさを示す情報が次々と半蔵の下に届くのである。新政府の役人も時局を救おうと必死なのである。
 宿場の改革に反対のものの不平も募っている。半蔵は平田派の門人として、改革を徹底してやるべしと思っているが、疑問に思う人も多いのである。あれこれ脳裏を掠める半蔵は、通夜の中、珍しくしたたかに飲み潰れるのだった。

 万国公法の心意気というのか、新政府は太陽暦に改めた。明治六年四月のことである。四民平等であり、平民も乗馬・苗字も許される。今まで虐げられていた人々も一時的に頭をもたげる頃でもあった。一切の封建的なものが総崩れしている。
 庄屋・名主は戸長、副戸長と改称される。輸送に当たるものは陸運会社の取り扱いに変わる。蝦夷地も北海道と呼ばれ、開拓の有志が大移住を開始する。

 名古屋県から二年の月日を経て筑摩県に木曽谷の管轄が移行した。成ったのは明治五年の二月である。太陽暦も新暦に変わる。新暦の四月三日は祝日とされ、神武天皇祭が行われる。奉祝のため、国旗も板屋根の軒に高く掲げられたりもする。

 そんな中、新たに筑摩県となり、新しい判事が来る。木曽の地を全く理解せず、暴威を振るう役人が来たのである。彼が半蔵ら、山の民を苦しめる。
 半蔵は戸長となったが、同じく戸長である義兄の青山寿平次は郵便事務をも請け負う。店座敷の壁には八角形の柱時計がカチカチ音を立てている。

 さて、時代は大きく動いてしまった。どれほどの深さに達するか知れない大きな破壊がなされたのである。大政奉還に胸を躍らせた平田門人の半蔵らも、これからが正念場だと覚悟している。

 (『夜明け前 第二部上』了)

                                  (01/08/21

参照:「廃仏毀釈補遺…関秀夫

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