竹箒と読書と
木曜夕方からの雪が降りやまない。
断続的に降り続いていて、金曜日も、ほんのひと時、止むことはあって、止むのかとぬか喜びをさせた挙句、嘲笑うかのように、また大粒の雪が舞う。
← 三浦 佑之 著『古事記を読みなおす』 (ちくま新書) 「日本書紀には存在しない出雲神話がなぜ古事記では語られるのか? 序文のいう編纂の経緯は真実か? この歴史書の謎を解きあかし、神話や伝承の古層を掘りおこす」! 著者の主張するように、もうそろそろ明治維新直後の頃、日本の近代化のためにでっち上げられた記紀神話から卒業してもいい頃だろう。「記」と「紀」は別物、水と油なのである。
午後、竹箒で庭を掃いて回った。
日中でも零度をわずかに上回る気温だったため、雪はふわふわしていて、積雪十数センチほどの雪は、面白いように、掃き飛ばされていく。
最初は、玄関から車道までのつもりだったが、除雪がはかどったので、裏の勝手口まで箒で掃いて道を作った。
余勢を駆って、植木に降り積もった雪も、竹箒で払い落とす。
けれど、家に入り、茶の間で一服しようと思ったら、窓外にはいかにも積もるぞー、という雪が容赦なく。
小降りだった中、車で市立図書館へ。
返却期限が土曜に迫っていた。土曜は仕事なので、今日のうちにと思い立ったのだ。
→ 山本 健吉著『柿本人麻呂』(河出文庫) 「詩歌史の黎明期に現われた歌人・柿本人麻呂が、古代の生活共同体を背景とした雄大な長歌を完成し、同時に、反歌の中に個の芸術的衝動をこめて、抒情詩としての短歌の成立を促した跡を辿る壮大な論考」といった本。1990年刊行の本なので、画像が見つからない。なので、金曜日、我が家の茶の間からの窓外の光景など。竹箒を駆使しての除雪の直後なのだが、もう真っ白。道は埋まってしまった。
今、島崎藤村の『夜明け前』(四分冊の最後の一冊)を読んでいる最中なので、小説に限らず、あまり大部な本は借りたくない。
ということもあって、借りたのは以下の三冊:
三浦 佑之 著『古事記を読みなおす』 (ちくま新書)
山本 健吉著『柿本人麻呂』(河出文庫)
ベアント・ブルンナー 著『月 人との豊かなかかわりの歴史』(山川 純子訳 白水社)
『古事記』を巡る本、柿本人麻呂についての評論と、古典関連の本。
ここしばらく、古代史を含め古典関係の本を読んでいない。
そろそろ日本の古典(中の古典)の周辺を散策したくなったのだ。
と、ふと不安(?)になって、調べてみたら、案の定だった、山本健吉の「柿本人麻呂」は、数年前、読んだばかりだった。
小生がこの手の本を見逃すはずがないのだ。
でも、再読が悪いはずがない。
ベアント・ブルンナー 著の『月 人との豊かなかかわりの歴史』は、「月」をテーマの本。
「月」を巡っての本はこれまでも読んできた。「月」は、その影を眺めても、そも面影を想っても、湧きいずる想いは尽きない。
月をテーマの本もだが、月影をテーマのエッセイをどれほど書いてきたことだろう。
← ベアント・ブルンナー 著『月 人との豊かなかかわりの歴史』(山川 純子【訳】 白水社) 「もっとも身近でありながら、今なお多くの謎を秘める月。つねに人々の心を捉えてきたこの天体を、13の切り口から、古今東西の文化や科学的発見の歴史を通じて概観する。図版多数」といった本。
以下、本稿関連拙稿:
「大和岩雄・著『新版 古事記成立考』を読む」
「三浦 佑之著『古事記講義』 」
「三浦佑之『口語訳 古事記』」
「山本健吉の「柿本人麻呂」未満」(文末に、柿本人麻呂関連拙稿へのリンク集が載せてある)
「月の魔力?」
「 コロンブスの赤い月(後編)」
「青い月 赤い月」
「ジュール・ヴェルヌ著『月世界旅行』」
「嗤わぬ月」
「メロンの月」
「あの月影は夢か幻か」
「月影に寄せて」
「真冬の月と物質的恍惚と」
「真冬の満月と霄壤の差と」
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