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2013/01/17

島崎藤村『夜明け前』を、今、読む(7)

 いよいよ島崎藤村の『夜明け前』も今回より第二部に入る。

 時代は大きく動いている。幕府の中にも参勤交代を復活を試みるなど、揺り戻しを試みる動きが出たりする。このままの動きを座して眺めていれば、武家屋敷などがなくなり、江戸の町が衰亡すると憂える人も、町の中にはいるのである。

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→ 「鈴木春信画。眼鏡絵を覗く様子を描く。画面上部に設けられた色紙形には、高野の玉川を詠んだ弘法大師の和歌が記され、眼鏡を通して見ている絵も高野の玉川と見られる」 (情報及び画像は、「眼鏡絵 - Wikipedia」より)

 第二部(上巻)冒頭、円山応挙なる名前が目に飛び込んでくる。
 応挙(1733-95)とは江戸中期の画家であり、狩野探幽の流れをくむ画家に入門して絵を学んだ人である。が、彼は「眼鏡絵(めがねえ)」の制作を通して西洋画と出会い、写実的な画風に傾いていった人でもある。

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 眼鏡絵とは、凸レンズと反射鏡を組み合わせた覗き機械(のぞきからくり)に使用される絵のことで、透視遠近法や写実的陰影法を用いている。一方、清朝の画家から最新の写生画法を取り入れており、単純な西洋かぶれではない。

 さて、第二部の冒頭は、「円山応挙が長崎の港を描いたころの南蛮船、もしくはオランダ船なるものは、風の力によって遠洋を渡って来る三本マストの帆船だったらしい」という一文で始まっているのである。
 それが、嘉永年代(孝明天皇朝の年号:1848-1854)以降に渡来する船は、いわゆる黒船となっている。その黒船の力が極東の港を開かせることになるわけである。
 そして第二部の冒頭は、黒船に乗ってやってきたアメリカ使節ぺリイとその周辺を語ることに、多くの紙面を費やしている。
 その周辺といっても、藤村はケンペルの旅行記などを参考に、十七世紀の末、この国に渡ってきたオランダ人らの歴史から語り始めるのである。

 オランダ使節の一行は、将軍に謁見するだけではなく、次第に謁見後、将軍やあるいは奥方、老中等の前で、オランダの風俗習慣を実際に演じさせられるようになるのである。オランダ式の挨拶から歩く様、転げまわったり、踊ったり、歌ったり、挙句はキスをさせられたり、鬘(かつら)を脱ぐに至るまで、蜿蜒、何時間も求められるままに演じて見せたという。 
 それもこれも将軍と誼(よしみ)を通じるためだったようである。
 が、ぺリイはオランダ人のようなピエロは演じない。あくまで「全く対等の位置に立ち、一国を代表する使節としての重い使命を果たしに来た」のだ。

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← 「江戸城で西洋のダンスを披露するケンペル。『日本誌』より」 (情報及び画像は、「エンゲルベルト・ケンペル - Wikipedia」より)

 さて、そうして渡ってきた使節たちは、この国の主権の所在を判断するのに苦しんだ。
 例えばイギリスの使節が献上した一艘の蒸気船も、日本皇帝への贈り物だったはずだが、江戸の役人は幕府へ献上したものだとして、京都までは取り次ごうとはしなかった。主権は武将の手にあるというわけである。
 そうはいっても、事情は次第に在留外人に感知されてくる。第一の願望である兵庫の開港を迫る中で、勅許の出方を見ることで、まことの主権の所在を突き止めるようになったのである。

 フランス公使ロセスは開港の方針で進む江戸幕府に同情し助けようとするが、イギリス公使パアクスはこの国に革命が起きてきたことを知り、西南の雄藩を励まそうとする。両者の間で皇帝と大君(将軍)との真の関係について激論を交わしたことは不思議ではないのだ。
 その経緯を述べた上で藤村は最初の米国領事ハリスの口上書を引き合いに出す。

 その口上書の中でハリスはイギリス、フランスなどは戦争をしてでも、蝦夷、函館の領有を狙っていると述べている。
 蒸気船の発明以来、「交易による世界一統」の流れが生れたとも、説いた上で、日本はエージェントを首府に置くことで、シナなどのような事態を避けられると述べる。
 シナは人命を百万人、失い、数々の港は勿論、南京まで英国に乗っ取られ、更に莫大な賠償金をもシナは英国に払っている。
 そうしたイギリスやフランスがシナに戦争を仕掛けたら、シナの行く末は知れない。米国はシナとの戦争に加担することを両国より求められたが、「アメリカ大統領はそれを断った」
 イギリスはシナの害になるアヘンの交易を禁じないが、アメリカ大統領はアヘンは戦争より危険だとして、自国の者が日本にアヘンを持参することを許さない。
 アメリカは交易を求めるのみである。他国とはわけが違う。

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→ エンゲルベルト・ケンプファー著『江戸参府旅行日記』 (斎藤信訳 東洋文庫)

 更に、二百年の昔、御国(日本)がポルトガル人、イスパニア人を追放した頃は、宗門の問題があったが、アメリカは宗門は人々の望みに任せている。
 その上で交易の望ましいことを縷縷、口上書は述べるのである。
 ハリスはぺリイとは違い、力に訴えることなく、日本の国情を理解しつつ、開港を求めたのである。当時、若いアメリカの理想主義は日本にとって、利害得失は別にして、ありがたきことだったのではなかろうか。

 慶応三年、兵庫の港が開かれる。外人居留地も含め、準備の整わない中での開港だった。それ故に、兵庫での治安は危うい。実際に英国人が殺害されるという事件も生じたのである。その結果、英国陸戦隊の上陸を見たのだった。兵庫・神戸の住民に非常な混乱を引き起こすことになる。
 そこへたまたま新政府の先遣隊である長州藩の兵士を乗せた船が兵庫の港に着く。幾分の混乱の後、長州兵が兵庫神戸の治安を預かることになるのである。

 一方、徳川十五代将軍が大政奉還の噂が民間に伝わる中で、京阪各地に続く「えいじゃないか」の声はますます湧き上がる。神戸にある運上所(税関)にまでその声は響き伝わるのだった。
 その声を耳にしながら英国、仏国、伊国、普国、米国、その他の国の公使が神戸運上所にて京都新政府の使臣を迎えるのである。日本側は新政府の代表団であり(その中には伊藤俊介などがいる)、つまりは、天皇親政の始めとなるのである。

 新政府は成ったが、倒幕が成ったわけではない。その中、徳川慶喜は外国公使を招き、外交の事は幕府が責任を持つと告げている。微妙な局面に日本はあるわけだ。ひそかに新政府に武器を販売する英国、旧幕府に軍用品を供給する仏国。
 が、米国は両国への思惑もあり、中立を守る。彼は「日本の御門と大君との間に戦争の起ったことを布告し、かつ合衆国人民の中立を厳守すべきことを言い渡した」
 つまり、軍船・武器・弾薬・兵糧の売却も貸与も厳禁したのである。この布告の趣旨には表向き、各国は異議を唱えられない。

 西本願寺において改めて外国公使と新政府代表との会見が行われる。それは新政府が条約を正式に認めることを意味していた。が、徳川慶喜討伐の師が京都を出発する中でのことだった。不穏な空気が流れている。外国公使たちも様子見の気配が漂う。

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← 「大政奉還図」( 邨田丹陵 筆) (画像は、「大政奉還 - Wikipedia」より)

 その中、新政府代表は帝への謁見を勧める。その上で進退を決めてはと告げるのである。新政府としては、周囲の事情からして島国の孤立が許されないことを感じている。今まで攘夷を叫び、軟弱な外交を展開するとして関東を攻撃してきた新政府だが、今、往時の幕府当局者と同じ悩みを経験するのだった。
 あの岩瀬肥後を苦しめた立場が、今度は新政府当局者の身に回ってきたのである。とにかく、意に反しようと「交易による世界一統」という目的に向かって進み出るしかないのだった。

  そうした新政府の苦渋をよそに、外国人への排外の沙汰はしきりに起る(旭茶屋事件など)。勃発する事件の打開にあたるのは、無論、新政府の役目である。幕府が定め置いた条約は日本政府の誓約だとはっきり認めてもいる。
 事件の中には行き違いがあって、土州兵の引き起こした事件もある。その咎に対し、土佐は切腹を以って応じる。その切腹すべき人物は、フランス側の犠牲者の数、約20人に帳尻を合わせるため、20人を籤引きで選ぶのだった。

 やがて江戸総攻撃の日も近づいている。が、日本の内乱は外国公使らも望まない。徳川慶喜が恭順の意を示してもいる。また、内乱になりこの国が衰亡したら、貸したカネも戻らないかもしれない。特にフランス公使は慶喜を救いたい一心である。
 相変わらず夷狄(いてき)の輩(ともがら)を参代させることには国体を汚すことだと悲憤慷慨する連中も多い。実際、京都を巡る一行の一部は襲われたりもしたのである。それでも、新帝が各国代表者の挨拶を受けるのは、不満の渦巻く中、他に道はないのだった。

 王政復古が成る中、平田篤胤没後に平田派の門人となった者が多数、勤皇の士として枢要な位置を占め始めている。越前の橘曙覧(たちばなあけみ:1812-68)などもその一人である。公家衆の中にさえ平田派の同門の人が増えている。数千人に及ぶ勢いなのである。それは平田篤胤の『霊(たま)の真柱(まはしら)』という言葉が、今こそ生きるからだと門弟たちは思う。

                           (01/08/12)

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