屋根の雪下ろし…遠い昔のこと
先月だったか、暖冬のはずが、積雪量の多い冬になりそうという予報へと一転してしまった。
富山の雪は、湿気が多く、重い。
← 猛吹雪の中、夜を徹して除雪作業をする自衛隊員 1963年2月8日 富山・富山操車場で (画像は、「昭和毎日:三八豪雪 - 毎日jp(毎日新聞)」より)
屋根などに積もれば、堆積の高さが一メートルどころか、数十センチでも、場合によっては雪下ろしを強いられる可能性が出てくる。
昨年も一昨年も、台所の脇にある、作業小屋のトタン屋根に上り、そこから台所の庇に足をかけ、必死の思いで雪下ろしをした。
必死というのは大袈裟ではない。
トタン屋根もだが、そちらは波状なのでまだしもとして、台所の庇は、ただのトタンで、雪でなくても、濡れていると、とにかく滑りやすい。
台所の屋根などからの落雪が地上に堆積していて、人の身長ほどにある。
誤って滑り落ちても、雪の山に突っ込んでいくだけで、少なくとも即死はしないものと期待する。
但し、即死は難しいだろうが、雪の中に埋まってしまって、凍死か窒息死の可能性は皆無とは言えない。
そもそも、小生が屋根の雪下ろしをしているなんて、知り合いも近所の方も知る由もない。
日ごろ、誰とも特に連絡を取り合っているわけではないので、数日や一週間、あるいはそれ以上の日々、音信不通になっても、誰も怪しまないだろう。
幸か不幸か、今は勤めがあるので、会社からは、無断欠勤を咎める電話くらいはあるかもしれないが、消息を確かめるようなことは、当分はありえない。
つまり、富山市の中心部から程遠くない町中で、雪下ろしで誤って滑り落ち、凍死しているのが見つかるという、富山では年に数回はある事件(事故)の当事者となるやもしれないわけである(あった)。
遠い昔、父は屋根裏部屋の窓から外に出て、台所の屋根、さらには母屋の屋根へと伝って上り、雪下ろしをしていたのを思い出す。
時には、腰に命綱として縄を括り付け、屋根の上にひっかけて、万が一に備えていた。
小生がガキの頃は、子供には屋根の雪下ろしはさせず、父が一人でやっていた。
38(サンパチ)豪雪の時も:
「とやまデジタル映像ライブラリー-[148] 630101 昭和38年 豪雪の記録-」
その後、積雪量は、徐々に減っていって、一メートルさえ、積もらなくなった。
その頃には、小生は富山を離れていて、盆や正月などに帰省するだけになり、お正月には、雪の風景は間々あったものの、屋根の雪下ろしを迫られるような状況を目の当たりにすることはなかった。
が、雪が本格的に降るのは一月の半ばからであり、二月こそが山場なのである。
その頃には、小生は不在だったわけだ。
盆の頃はともかく、お正月の帰省の折など、そんな父の苦労話など、あまりしなかったのが悔やまれる。
そういえば、昭和五十六年の大雪の際、正月過ぎに(確か十日過ぎ)に不意に帰省したことがある。
富山が大雪だとテレビかラジオのニュースで知り、除雪で大変だろうと、思い余って帰省したのである。
明るいうちに家に着いたのだが、ちょうど父が庭先で雪掻きしていて、そこに小生の姿が現れたものだから、父は目を点にしたものだった。
まさか息子が除雪の手伝いのために帰省するとは夢にも思わなかったわけである。
息子が予想外の日に帰省するのは、息子に何かあったのかと、吃驚したのだろう。
そんなことも、既に遠い昔の話となった。
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コメント
中央通りか総曲輪通りのアーケードが雪の重さで倒壊している画像を見たことがあります。
56豪雪の際は高校生でしたが、市電がストップして線路をみんなが歩いていたのを憶えています。
今では考えられない出来事です。
投稿: SILVIAおじさん | 2012/12/20 20:01
SILVIAおじさんさん
38豪雪の時は、小学三年だったか四年だったか。
でも、印象は強烈。
56豪雪の際は、東京在住で、一番ひどい時の状況は知らないままでした。
56豪雪があったってことも、のちに歴史として知った始末。
いろんなエピソードがあったんでしょうね。
もっといろいろ知りたいです。
投稿: やいっち | 2012/12/21 21:57