いつか来た道
どこを歩いているのか分からないでいた。遠い昔、気が遠くなるほどに遠い昔、一度だけ歩いたことのあるような道。薄闇にかすかに浮かぶ竹垣の家の曲がり角の感じが、なんとなく見たことがあるような気がする。
そうだ、ガキの頃に、追いかけっこか鬼ごっこをしていて、必死になって逃げる際に、あの角から出っ張っていた竹か、それとも竹垣から突き出ていた松の枝だったかにセーターの袖が引っ掛かってしまって、一瞬だけど身動きできなくなって、懸命にもがいていたんだった。
あの時、鬼に追いかけられていた。
鬼ったって、近所の兄(にい)ちゃんだったはずだけど、なんだかホントに鬼のように思えた。掴まったら食べられてしまう、お寺かどこかで見た地獄に落ちた悪人のように、魔物たちにパックリ呑み込まれてしまう、でなかったら閻魔様のところに引き摺られていって、お前はなんて悪い子なんだと、怖い顔で睨まれてしまう…。
鬼ちゃん、じゃない、兄ちゃんの足音が聞こえる。今、思えば、兄ちゃんは、わざとゆっくりと追い掛けてくる。簡単には追いついたりしない。だから慌てる必要なんてなかったんだけろうど、そんなことがあの時のボクに分かるはずもない。
ボクは泣きそうな思いでセーターの袖口を引っ張った。裂けようが穴が開こうが、そんなことはどうでもよかった。だけど、焦れば焦るほど、毛糸が絡まって、しまいにはボクは本当にワーワー泣き出してしまった。
どれほどの時間、泣いていたのだったろう。気がついたら、日が落ち始めていた。周囲はシーンと静まり返っている。誰もいない。日中はともかく夜ともなると、誰も通らない道。
ふと、袖の辺りを見遣ると、裂け解れた毛糸がダラリとぶら下がっている。けれど、もう、何処にも絡まってなどいない。
そうだ、ボクは無我夢中で力任せに逃げようとして、どうしても解れなくて、とうとう気力が萎えて、ホントは何処へも逃げられるのに、へたり込んでしまっていたのだ。
秋口で、寒くはないはずだけど、でも、背筋がゾクゾクし始めていた。
鬼ちゃんは、じゃない、兄ちゃんは、どうしてボクを捕まえてくれなかったんだろう。他に獲物があったからなのか。
薄闇の竹垣の道。街灯などあるはずもなく、ボクの大嫌いな小父さんの家の窓から、溶けたアイスクリームのような、だらしない灯りがそこらに垂れ零れているだけ。あの時、空に月とか星とか見えたっけ。
ボクは、何処とも知れない道を歩き続けていた。馴染みのあるような、でも、よそよそしい道。
あの時、どうしてあんなにも必死に逃げたのか。今では分かっている。
そう、鬼ちゃんのあの性癖のせいなのだ。兄ちゃんは、獲物を捕まえたら、何処かの藪に連れ込んで、なんだか訳の分からないことをする。ボクは、その光景を何度となく見詰めてしまった。そうだ、ボクは逃げ足が速かったから、それに可愛いほうじゃなかったから、鬼ちゃんの餌食にはならなかった。
でも、兄ちゃんに掴まってさんざんに可愛がられた女の子は何人もいる。女の子がいないときは、可愛ければ男の子だって餌食になる。兄ちゃんの玩具になる。真っ裸にされて、そして裸のお兄ちゃんの裸のどこかに潜り込まされる。
そんな真似をさせられるのが嫌で嫌でたまらなくて逃げた…。そう思っていた。ずっと、そう思ってきた。いや、そう思いたかったのだ!
でも、もう、今じゃ、さすがにオレは分かっている。そうだ、オレはあの時、兄ちゃんから逃げようとしたんじゃなかったんだ。オレは、お兄ちゃんのいるほうへ急いで行きたかったんだ。そして、お兄ちゃんのやることを、玩具となったやつらの哀れな格好を、えげつない仕草を眺めたかったんだ。オレは、あいつらみんなが何故か憎かった。みんな可愛くて、無邪気で、親に大切にされていて…。
だけど、そのときは、焦ってしまって、兄ちゃんの与えてくれる楽しみに間に合わなかった。鬼ちゃんが餌を呑み込むさまを、いや、呑み込まさせる光景を一緒になって、そう、自分も食っているような、食わさせているような気分になって楽しむ、その愉しみがフイになってしまうことが惜しくてならなかった。あの頃のオレはそのことを悔しがっていた…。
オレは今、何処とも知れない道を歩いている。そう、今度はオレが鬼になる。そのために、今、薄闇に浮かぶ、いつか来た竹藪の道を、餌を求めて歩いているのだ…。
(03/12/24 原作 本文中の挿入画像は、「竹垣 - Wikipedia」より)
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