島崎藤村『夜明け前』を、今、読む(5)
本稿の中に、<「古代に帰ることはすなわち自然(おのずから)に帰ること」であり、「自然に帰ることはすなわち新しき古を発見すること」なのである>というくだりが見える。
ほぼ同時代のフランスの思想家にジャン・ジャック・ルソーがいる。あの "自然に帰れ" のルソーである。何か世界規模での共振めいたものを感じるのは、小生のこじ付けではないと信じる。そういえば大学時代から卒業してフリーター時代の小生は、結構、ルソーの諸著を読み浸っていた。
→ 画像の真ん中にハトより一回り小さな鳥の姿が見えるだろうか。いよいよ餌探しも難しくなってきている。我が家のミカンにも、啄む鳥も現れてきた。ミカンはやがて収穫するけど、いくつか、鳥餌として残しておくからね。
ルソーは日本では明治以降、『社会契約論(民約論)』(中江兆民訳)が自由民権運動に、あるいは教育界に『エミール』が影響を及ぼしたとされるが、小生としては、自然主義の文学者島崎藤村に『告白録』のルソーが影響を及ぼしたという点が注目される。
ルソーは結婚したテレーズ・ルバスールとの間に5人の子供をもうけるが、全て孤児院に送った。そうした捨て子をしたという事件はルソーの心の重荷になった。
一方、島崎藤村は受洗しクリスチャンとなり、女学校の教師となるのだが、許婚のある教え子への愛に苦しみ、教会を離れるという経験をもっている。
ちょっと余談が過ぎた。さて、本題へ!
大和地方で倒幕の火の手が天誅組の一揆の形で挙がり、鎮静せしめられたが、第二の火の手が挙がった。
それは水戸藩士によるものだった。水戸の御隠居(烈公)が在世中、各所に設けた郷校で文武を学んだ尊皇攘夷派の中の、更に急進派の面々である。
烈公とは、言うまでもなく徳川光圀(義公=後世、水戸黄門漫遊記のモデルとして有名になった人物である。実際、諸国とまではいかないが、領内を盛んに巡り民情視察を行った。『大日本史』の編纂事業を命じ、殉死を禁じ、文化財を保護した、希有な人物でもあった)の事業を受け継いだ斉昭のことである。
その斉昭の実子が一橋慶喜であるのだが、慶喜については後に触れるだろう。
『大日本史』の特長は歴史重視と国体観の高揚と尊王思想にある。神武天皇から南北朝の終りまでを記述している。しかし、最も「思想的に影響のあったのは、従来の常識を破って南朝を正統としたこと」だった。
← 島崎藤村著『夜明け前 第一部〔下〕』(岩波文庫) ようやく読了!
水戸の藩士達は脱藩し浪士となる。田丸稲之衛門、藤田小四郎、武田耕雲斎らが中心人物で、そこに郷士や神官、農民等約1000人が加わった。この火の手は後に(筑波)天狗党の乱と呼ばれることになる。やがて約350人が斬罪に終わる悲惨で激しい事件だった。
天狗党の面々は無益な戦いを避けるため、幕府追討軍や諸藩の兵と戦いながら(実際には幕府の追討軍は天狗党とは一定の距離を保って追討していた。血を流したのは通り道の諸藩である。中には通過を見逃した咎で責められた藩もある)、つてを頼りに西に向かった。
そのつてとして平田派の同門がある。彼らは尊皇攘夷と王政復古の点で、水戸の浪士に共感を抱いているのである。無論、青山半蔵もその一人であることは言うまでもない。青山半蔵は、危険を冒して同門の士と共に、馬篭などの木曽路から中津川辺りのルートを導いたのだった。
それは伊那の村民でさえ行き悩むような道である。「木から落ちる山蛭、往来の人に取りつく蚋(ぶよ)、強い風に鳴る熊笹」の「昼でも暗い森林の谷は四里あまりにわたっている」
その深い山間(やまあい)の道を分けて、負傷者や十数門の大砲を運ぶのである。
平田篤胤の思想、特に半蔵にとっての篤胤を見ておこう。
篤胤(1776-1843)は新しい古(いにしえ)を半蔵らに教えたのである。本居宣長に始まる古への思いは、平田篤胤によって大きく足を踏み出す。篤胤は(半蔵らには)中世以来の武家社会の中で異国の思想に過ぎない仁義礼忠信の徳目などに<人間>が押さえつけられてしまった封建社会の空気から、自然(おのずから)に帰ることを主唱していると理解された。
平田篤胤は、「中世のような権力万能の殻を脱ぎ捨て」「この世に王と民しかなかったような上つ代(かみつよ)に帰って」「出発点から出直す」ことによって新しき古(いにしえ)が得られると説くのである。「古代に帰ることはすなわち自然(おのずから)に帰ること」であり、「自然に帰ることはすなわち新しき古を発見すること」なのである。
「現代の生活を根からくつがえして、全く新規なものを始めたい」彼ら平田派の面々は、本地垂迹説や金胎両部の打破を叫び、「全く神仏を混交してしまったような、いかがわしい仏像の焼きすて」は、もうそこここに始まっていたのだった。
← 島崎藤村著『夜明け前 〈第2部 上〉 (改版) 』(岩波文庫) 今日、30日より、第2部へ。激動の維新。少なくとも第1部には、坂本竜馬の名は、一度も出てこなかった。第2部はどうだろう? いずれにしても、時代の激変、体制の転換は誰か英雄一人の手になるものではない。そこがまさに本書の狙いの一つなのだが…
さて、時代は螺旋を描く。一旦は事実上廃止されたはずの参勤交代の制度の復活が幕府内で画策されている。その中、天狗党の末路は憐れを窮めるのだった。上記したように350人もが斬罪される。わずかに供の者、農民等が助けられるのみだった。
半蔵の下にも、そうした百姓が宿と飯を求めてやってくる。百姓の懐には、町役人の書付がある。それにはこのものは水戸浪士についてきたものだが、仔細はないので帰国を許す。万一、路銀が不足した際には街道筋の問屋でよろしく取り計らえ、とある。
一方、参勤交代の制の復活を画策する幕府であるが、反発する藩は多かったのだった。
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