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2012/12/05

あの頃の自分 今の自分

 あの頃の自分は何を求めていたのだろうか。眩しい陽光を追いかけていたのだろうか。まだ当時は、たっぷりと広がっていた田圃と砂利道と空き地と何があるか知れない林とが世界の全てだった。日が出ていたら日の下で近所の友達とそこら中を駆け回ったし、雨が降ったら降ったで、裸足になって水溜りをわざとバシャバシャやって、水と泥とのえも言えぬ感触を味わった。

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 心臓の弾む感覚。もう、身動きなどできないほどに走り回って、くたくたになっても、何処かの木の根っことか、農機具の収められた小屋の柱とか、校庭の隅っことかで、体を休める。誰かの連れて来た犬が脇にいたりして。
 ほんの一時、休めば、もう、疲れは何処かへ吹き飛んでいる。疲れなんていうのは、暑くなったら脱ぎ捨てられる、邪魔っ気な上着のようなものだった。

 縄跳びや缶蹴りや鬼ごっこや野球やチャンバラ、あるいは影踏みなどをして、ぶつかり合ったり、じゃれあったり。
 そこには、自分が居り、相手がいた。何かを発しったら、何かを返す友達がいた。男の子が大半だけど、女の子もいたっけ。ふいに女の子が畑に行って、しゃがみこむものだから、何するのかと覗き込んだら、おしっこだったな。女の子、見られても平気で、シャーシャーやっていたっけ。その勢いのいいこと!
 閉じられた世界。狭い世界。その世界だけで生きているなら、それはそれで楽しかったのだ。閉じた世界には、自分たちを見守る大人たちがいたのだ。

 世界は開いている。他所の世界がある。隣の町。遠い町がある。見知らぬ町の見知らぬ人々。一歩、外に出ると、自分を奇異に見つめる人の目。針の筵。全面、鏡張りのアリ一匹も這い出る透き間のない空間。母に連れられて他所の町へ行くことは、息を詰めること、心を閉ざすこと、目を閉じること、全てを夢の中の世界として受け流すこと、遣り過すことだった。

 でも、そんなわけにはいかない。眼差しは薄紙に染み入る水のように、体中を射抜く。神経がこれ以上、伸ばしようもないほどに引っ張られてしまう。人生の壁に磨り減ってしまう。世界は、自分の町という閉じた世界では決してないことが分かる、思い知らされる。

 世界は胸を開いている。常に違う世界へ繋がっている。罠と縁に満ちている。
 相互に脈絡もなく、あるいは掴みどころのない機縁のゆえに通行し合う。

 その中で、敢えて閉じた世界に閉じ篭ることだってできないわけじゃない。目を閉じ、心を閉じて、己の世界の壁面に空いた穴を埋めつづけ、その世界の中で一個の宇宙を作り上げる。どんなに小さな宇宙だろうと、その宇宙には無限がある。小さな世界を見つめると、その小さな世界の更に奥により微細な宇宙が広がっているのだ。剥いても剥いても、際限なく宇宙は縮小再生産される。決して終わりの時が来ることはない。
 その閉じた世界で安逸を貪ることだって、それはそれで愉しいに違いないのだ。そして、誰にも非難される謂れもない。退屈なんて、ありえない。

 世界の中で、一個の窓のない完璧に循環し続ける世界を構築し、やがては窒息するのだとしても、それは緩やかな自殺のようなもの。とてつもない至福の時が己を満たす。それはそれは愉しいのだ。
 その世界から、ほんの時折、窓を少しだけ開けて、外界を眺め、吹き荒ぶ嵐を垣間見て、ああ、やっぱり部屋の中は安楽で安全でいいなと思う。時に、外界の豊かさを思い知らされる光景を見ることがあっても、窓を急いで閉め、何かの間違いだと思い、そして昆虫図鑑とか、本の紙魚の数などを数え始める。そのうち、外の世界への羨望の念など忘れ去るに違いないのだ。

 世界は開いている。どんなに完璧を装ってみても、世界は土台から揺るぐ。揺さぶられる。誰によってか。それは結局は自分によって罅割れの時を招いてしまうのだ。
 外の世界がある。外の世界は内にだってある。というより、内の世界に自足していると思っていたのが、気が付いたら、壁面は外界の表皮そのものだったと気づかされるのだ。

 どうしてそんな羽目になるのか。それは命が矛盾に満ちたものだからだ。絶えず新陳代謝を繰り返すものだからだ。飽くことなく他の世界を浸潤してやまないものだからだ。
 そして、その異質な世界同士が浸潤し融合し、あるいは相克し軋轢の熱を発し、安泰そのものだった閉じた世界の大地が根底から湾曲運動を起こし、造山運動を起こし、あるいは崩壊現象を起こし、足場などあるはずもなくなり、ガキの頃に遊んだ泥濘とは凡そ似ても似つかぬ、底なしの、しかも煮え滾る泥沼に自分が浸かっているのであり、そうした閉じた世界など何処にも許さないこと自体が、生命の蠢きの証左なのだと思い知る。

 気が付いたら、巨大な岩の下敷きになっている。息も絶え絶えである。今にも絶命の時を迎えそうである。けれど、命は執拗に自分に生きることを選ばせる。何を求めてということではなく、とにもかくにも生き延びることを選ばせる。そんなに簡単には死なせない、楽にはさせないよとでも言うが如く。

 親が病む我が子を懸命に看病し、とにかく生き延びさせるように、生きることがよきことか、生きることが生きるに値することなのか、などと問うような、そんな悠長な戯言を吐くゆとりなど、露ほどもなく、我が子に生き延びて欲しい、息を絶やすことなどあってはならない、苦しげな息が少しでも楽なものになり、やがては長い夜の果てに薄明かりの時を迎えるように、我が子にもそんな時が来て欲しいと念じる。祈るしかないのだ。

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→ (画像は、「窓辺の影」より)

 そのように、一個の孤立した魂の彷徨い人であっても、その魂に誰かが呼びかける。誰かが祈りの闇夜を走りつづける。一個の孤立した魂など、この世に存在しないのだ、一個の魂であっても、それは見かけに過ぎず、決して閉じた魂などはありえないのであり、やがてはその孤独な魂に、遠い地上の世界に降り注いだ日の温もりが、そうでなかったら、降り注いだ雨が、細い道筋を辿って、地の底の魂に一滴の雫となって、潤いを与える。
 世界は開いている。閉じようがないのだ。

 そうして生き延びて、いつか、地の上に裸足で立って、日の光を浴びる。木々の緑を愛でる。風の囁きに震える。世界がとてつもなく広く、豊かであることを知る。生きている、ただそれだけのことが、想像をはるかに越えて有り難きこと、懐かしいことだと思い知る。
 そんな思いに胸を熱くしたなら、きっと、その時には、閉じていた胸も開いているに違いない。世界が開いているように。 


[「世界は開いている…」(03/11/21 作)より。一部、改編。]

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