早瀬の水音をめぐる俳句
雪に悩まされる日々が続く。
昨日今日と、晴れ間も望めたけれど、生憎、我が家の庭は、日陰になっている場所がほとんど。母屋だったり蔵だったりの陰になっていて、晴れていても日に当たらなくて、なかなか溶けてくれない。
なので、雪解けを日の光に任せるためにも、雪の山をスコップで取り崩して、日の当たるほうへと移動させる必要がある。
← J・M・G・ル・クレジオ 著『ル・クレジオ、映画を語る』 (中地 義和 訳 河出書房新社)
細長い庭なので、数十メートルに渡っての除雪作業を強いられる。
まあ、そんな愚痴はさておいて…
J・M・G・ル・クレジオ 著の『ル・クレジオ、映画を語る』を読み始めている。
ル・クレジオの映画好きは夙に知られているところだが、彼の詩や小説との相関も彼自身認めている。
本書はまだ読み始めたばかりなので、感想は、たとえば、「【書評】『ル・クレジオ、映画を語る』J・M・G・ル・クレジオ著、中地義和訳 - MSN産経ニュース」などに任せておこう。
彼の映画評は、批評と云うより、これ自体が(容易に想像がつくように)詩文のようである(だからといって、的を射ない、勝手な創作文というわけじゃない!)。
学生時代、やはり当時、凝っていた埴谷雄高の映画評を読んだ時の印象をちらっと連想したりして(批評が同時に詩文であるという意味での類似を想っているだけである)。
さて、本稿では、感想とかじゃなく、小生らしく変則的な駄文を弄することにする。
ル・クレジオは、「文学における自由とは、感動と記憶の想像力の源泉に、すなわち言語に、直接向かう点にある」として、次のように語っている:
(前略)本を一冊開けば、それは私の人生、私の財産、私の現在となる。退屈な本ならば、放り出すのは簡単だ。むずかしい本であれば、軌跡か、閃光か、ひらめきのようなものが生まれるのを待つ。私には、『失われる時を求めて』の世界に入るのに時間がかかった。そこに立ち戻り、没頭して解読の鍵を探すことがなかなかできなかったのだ。ある日それを見つけた。。それはマドレーヌの挿話ではなく、『スワンの恋』のごく冒頭に読まれる長いフレーズ、ヴェルデュラン家の正面玄関の呼び鈴が問題になる一文であった。その呼び鈴は、話者の記憶が始動することを命じる人物が到着するときに鳴るのである。それは早瀬の水音をめぐる俳句を思い出させる――そこが入口だ。
そのあと、映画との対比が論じられていくのだが、ここでは割愛させてもらう。
ル・クレジオが、『失われる時を求めて』の世界に入るのに時間がかかった、というのはちょっと驚きだが、まさに詩人なるがゆえに波長の周期の合うタイミングを見出すのが難しかったのだろう。
ところで、ここではそんな本筋論に入るつもりはない(その能もないし)。
転記文の最後に、「早瀬の水音をめぐる俳句を思い出させる」とある。
本書の註に、松尾芭蕉の「五月雨をあつめて早し最上川」を指すと思われる、とある。
「五月雨をあつめて早し最上川」は、"早瀬の水音をめぐる俳句" なのだろうか。
最上川の流れの速さ凄まじさ(轟音も含めてだが)を表現しているのではなかろうか。
どうも、ピンとこない。
水の音、というと、「古池や蛙飛びこむ水の音」をすぐに思い浮かべてしまうが、こちらは古池の水音であって、早瀬とは違う。
同じく水の音というと、「ほろほろと山吹ちるか滝の音」(笈の小文・春・貞享五)なども浮かぶが、これは滝の音であって、早瀬とは似てないし非なるものであろう。
俳句ではなく、地の文だと、「野ざらし紀行」の中に、「富士川のほとりを行くに、三つばかりなる捨子の、哀れげに泣く有り。此の川の早瀬にかけて浮世の波をしのぐにたへず、露ばかりの命まつ間と、捨て置きけむ、小萩がもとの秋の風、こよひや散るらん、あすやしほれんと、袂たもとより喰物なげて通るに」などあるが、もとよりこれは俳句ではない。
「蚤虱 馬の尿する 枕もと」なども、ある種の水分の急流となって落ちて奏でる音であろうが、あまりに毛色が違うだろう。
やはり、「早瀬の水音をめぐる俳句を思い出させる」句というと、「五月雨をあつめて早し最上川」ということになるのだろうか。
どうも、釈然としない。
芭蕉については、本ブログにても何度か採り上げたことがあるが、ここでは、以下を挙げるにとどめる:
「無精庵 芭蕉に学ぶ」(03/01/30 記 無精庵とは、小生の旧ハンドルネームである。)
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