誕生日に寄せて
私は、今日、生まれた。今日という日は、特別。何かが違うはずの日。
でも、遠く離れてしまったはずの、絆を疾っくの昔に断ち切ったはずの誰かが、不意に私を思い出し、私に「誕生日、おめでとう、あなたに逢いたかったよ」なんて言ってくれることを期待するような特別な日。
いつものような朝、昨日と変わらない朝なのに、でも、何かしらが違っていていいはずなのにと思ってしまう朝。
私は、今、平凡な人間として生きている。自分のことを特別な人間だなんて思わなくなって久しい。煌びやかな脚光からは、どんどん離れ去っていく人間。日々の勤めを果たすことに、精一杯な、自分のことより、周りの誰彼の世話や付き合いに忙殺されている人間。
ああ、でも、それでも、私は、私という人間はこの世に独りなのだ。
たとえ、世の中の誰一人として私のことを理解せず、それどころか名前さえも知らないのだとしても、あるいは、今日、否、たった今、私が消え去っても、誰一人、悲しむどころか、気付きさえしないとしても、でも、私は私にとって掛け替えのない人間。私を理解しているはずの唯一の人間。
そんな私の胸の底には、掛け替えのない人がいる。きっと、その人だけは私を見つめていてくれる。仮に、今日、その人から何の便りもメッセージも届かないとしても、その人だけは胸の奥底で私のことを思っていてくれるはずだ。
友達の「誕生日、おめでとう!」という歓声が上がっても、私は独り。私はその人の声の鳴り響くのを待っている。私は独り待ちつづけているのだ。
青く透明な闇の彼方から、私に向かい、「待っているんだよ」、と語りかける何か。
人は誰でも、その人だけの人生を持っている。誰にも気付かれないとしても、でも、私は私でなければ支えられない何かを懸命に支えている。
フッとした瞬間に気が遠くなって、絆に縋る手を放しそうになるけれど、でも、私は何かを必死になって握っている。私とは、その懸命さ、健気さなのだ。
誰にも、私が何を握っているのか、説明できない。自分にだって説明できないのに、できるわけもない。でも、その人には恥ずかしくて言えない、その健気さで、今日をやっとの思いでしのいで生きる。
明日はどうなるか、分からない。明日になったら、やっぱり緊張の糸が切れてしまうのかもしれない。でも、取りあえず、今日は生きている。生きているという奇跡をしみじみ、胸の底から堪能している。
この胸のどうしようもない寂しさ、吐き出したくなるほどの淋しさ、あるいは哄笑したくなるほどの愚かしさの自覚。その中に私はいる。私はただの意地っ張りなのかもしれない。
生きるとは、私を選ぶこと、私が私を愛でること。そんなことが、この年になってようやく分かった…。
それだけでも、もしかしたら、十分すぎる生きることの恵みなのかもしれない。
(原題名:「誕生日…人が生きるということ」(01/11/03 作))
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コメント
いやいや、独りでいるときの孤独は、語義通りだから理解できます。
寂しいとか、所在ないとか、そんな感情は救いです。
ふたりでいるときの孤独が恐いです。
人は孤独の前には絶対的に無力だと知らされます。
やがて、寂しさを埋めてくれた人とも別れが来ますし。
どこまでも無力ですよね。
投稿: 青梗菜 | 2012/11/08 22:15
あと3日で、僕の誕生日が来ますが、去年は、母の死と、襲ってくる悲しみ、今年は体調不良でどうでもいい。
けど、めろんぱん、メルマガ配信スタンドは、毎年、おめでとうメールくれますね。
人は独りでは生きられないんですよね。
投稿: oki | 2012/11/10 21:47
青梗菜さん
十一年ほど前に書いた、やや感傷的なエッセイ。
その頃、恋していたんだなって、でなきゃ書けない文章だなって、つくづく感じます。
今の小生は、東京を遠く離れ、恋する対象、つまりは己の孤独を酷く感じさせてくれる相手がいない。
なので、鈍感なる日々をいたずらに過ごしている。
この頃の文章のつまらなさも、そこにあるのかなって。
とことんの淋しさがあまりに辛くて、耐えがたくって、恋する勇気が持てないのかも、なんてことも思ったりして。
人間は…自分ってものは、厄介でわがままなものですね。
投稿: やいっち | 2012/11/10 22:34
okiさん
体調不良とのこと。
人のことを言える柄じゃありませんけど、でも、ご自愛を願うばかりです。
小生にしても、守りに入ってますし。
誕生日おめでとうのメッセージ。
この十数年、ネットのプロヴァイダーとかからの機械的なメッセージだけ。
ほかには誰からも言われたことはありません(親からも、親戚からも、友からも)。
その意味で、特に自分の誕生日は、自分の孤立をしみじみ思い知らされる日になってます。
自業自得なのかな。
でも、敬愛する人の誕生日は別儀。
勝手に心(からの祈り)をささげています。
投稿: やいっち | 2012/11/10 22:42