冬になっても青蜜柑
今年は蜜柑の実が結構、生っている。
一昨年、父母が亡くなった年は、ほんの数個、昨年は何と2個だった。
帰郷した5年ほど前は、笊に2杯も収穫できて、持て余していたのだ夢のようだった。
それが、今年は帰郷当時ほどではないが、笊(ざる)に一杯の収穫が期待できそうである。
父母が亡くなった年、ミカンも不作なら、番(つがい)のキウイも、共に死滅した。秋には台風の襲来もあったが、10数メートルまで育っていた杉の木が、幹の中途でバキッと折れた。
風呂のボイラーも故障し、ガスの二口コンロも片方が点火しなくなり、トイレの水回りも不具合が生じ…と、何もかもが父母を哀悼するかのように、後を追うように小生の元から影を消していった。
もっと消えていったり、遠ざかってしまったのは、生前、父母と交流のあった人々で、子の世代の小生は、置いてけぼりを喰らったように、広い家に一人、取り残された。
誰彼との付き合いは回復できないものの、三回忌を済ませ、少しずつ自分の生活環境を変えつつある。
淋しさを嘆いていても仕方がない。
自分で暖かさ、暮らしやすさを創出…が難しければ、演出してみるしかない。
一昨年、昨年と不作だったそのミカンが、今年は豊作とまでは言えないものの、そこそこの収穫が期待できる。
かなり育って、もうこれ以上大きくならずそれより、熟するほうに向かうことが期待されるミカンの実。
年を越す頃には、ミカンらしく黄色く(あるいは橙色に)色付くのだろうか。
艶々したミカンの実の光沢は、なんとなく自分を励ましてくれているようでもある。
「蜜柑」は、俳句の季語としても愛されている。
「蜜柑の花」だと春の季語、「青蜜柑」だと夏、ただの「蜜柑」だと冬の季語。
→ 秋も深まり、庭木の枝葉を剪定していて、勢い余って、ミカンの枝も少々、刈り込んだ。1個、枝葉ごと、切り落としてしまった。
おそらくは、冬の季語としての「蜜柑」は、オレンジ色に色付いた、いかにもミカンらしいミカンなのだろう。
けれど、我が家の蜜柑の木になるミカンは、真冬になっても青々としている。
さすがに、正月前後には、すべてではなく多くは、収穫させてもらう。
幾つかは鳥餌として残す。
その残りのミカン、いつかは橙色に染まっていのだろうと期待していて、気が付くと真冬になり、啄む餌に窮した鳥たちの餌となる。
ついに、オレンジ色のミカンには出会えない(今まで我が家の蜜柑の木では見たことがない)。
青蜜柑のまま、鳥に啄まれるのだろう最後まで、雪の中、ひっそり佇んでいるだけである。
蜜柑の実たちを眺めていると、今年は黄色く色づく予感もあるのだが…
青蜜柑雪に埋もれて鳥を待つ (や)
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