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2012/11/02

夜明けは来そうにない

 自宅では、B・マンデルブロ=著の『フラクタル幾何学 下』(広中平祐=監訳 ちくま学芸文庫)を読んでいるところ。
 奇しくもと云っていいのか、車中では、一昨日から、イアン・スチュアート著の『現代数学の考え方』 (芹沢 正三 著 ちくま学芸文庫)を読み始めることになった。

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→ 庭先の秋明菊(シュウメイギク)が愛らしい。ホトトギス草共々、我が家の庭を彩ってくれている。

 いずれも数学の本。違う分野、できれば全く異質な分野の本を並行して読むように心がけているのだが、成行き上、こうなった。

 出版社のうたい文句によると、「現代数学は怖くない! 「集合」「関数」「確率」などの基本概念をイメージ豊かに解説。直観で現代数学の全体を見渡せる入門書。図版多数」という。

 さらに、内容案内によると、「人はなぜ数学に魅了されるのか。世の中の役に立つだけでなく、それ自体の美しさがあって、快いものだからだ。「数学は芸術に似ている」―では、その美しさとはどういうもの?一般向けの数学書を多数執筆し、そのわかりやすさに定評のある著者が見せてくれるのは、イメージ豊かで精緻な数学の世界だ。話題は代数・幾何の基本から群論、線型代数、そして4次元の幾何学、ゲーデルの不完全性定理、コンピュータのしくみまで多彩。図版を巧みに使いながら、直観からのアプローチで現代数学の姿を展望する」とある。

 実際、イアン・スチュアートの本は、これまで『自然の中に隠された数学』(草思社)や『もっとも美しい対称性』(日経BP社)などの二冊、読んだことがあって、名前には馴染みがある。
 しかし、昨日から読み始めてみて、車中での待機中に気軽に読む本なのか、やや(自分の)選択に疑問がなくはなくなっている。
 やはり、自宅でリクライニングに体を預けつつの読書で、周囲に気づかいする必要のない状況で読むべきか。

 小生は、正直、明らかに数学的センスも理系のセンスも欠けている。
 なのに、高校三年の夏休みに入るまで、ギリギリ、理系の大学(学部)への進学を模索していた。
 数学や物理学などへの憧れの念が悪あがきにも似た試みを続けさせていた。
 最後は哲学への関心には、数学や物理への関心の底に共通するものがあると、自分に言い聞かせて、哲学科へと志望を変えた。

 数学や物理への憧れは、自分にセンスがまるでないだけに、好きな人に焦がれるが、相手には全く眼中になく、相手にされない不幸な状況に似ている(← 変な喩え)!
 絶世の美女に焦がれる醜男といったていか。
 つれなくされるほど、恋い焦がれる思いは募っていく(どこまで変な喩えは続く?)!

 なので(という続き方は文章上、論理上、いかがなものかと思うが)、小説や古代史、考古学、生物学などの本を読む合間に、焦がれる思いを癒すべく、現代数学の入門書などを繙いてしまう。
 たいていは、本文の大半は理解の外で、前書きや後書き、間々挿入されている人間味溢れる話題で、ホッとする…始末である。

9784480094377

← イアン・スチュアート著『現代数学の考え方』 (芹沢 正三 著 ちくま学芸文庫)

 実際、次に読む本は、決まっていて、マルケスであり(マルケス熱は未だ冷めやらない。ところで、余談だが、マルケスの影響をも受けているという、今年のノーベル文学賞を受賞した中国の代表的作家、莫言も気になっている)、島崎藤村(の『夜明け前』の再読)である

 年内は、藤村の『夜明け前』やマルケスの本を中心の読書となるだろう。
 但し、その合間にも、車中などでは、何か数学か物理の本を齧り読みして、恋い焦がれる、手の届かぬ誰かへの思いを募らせているはずである。
 我が数学への恋心には、夜明けは来そうにない!

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コメント

弥一さんは大学で、ウィトゲンシュタイン専攻でしたよね、数学と繋がって良いじゃないですか、特に前期のウィトゲンシュタインは。
大学だと文系でも一般教養で、数学取ると、n次元の話に及ぶそうですね、こちら、四次元でも分からないのに。
高校時代は、教科書棒読みのおじいさん講師にクラスなめちゃって、騒ぎ放題。G大学附属高校でもそうです。
しかし今Σとかもう忘れました、笑

投稿: oki | 2012/11/04 21:50

okiさん

前期のヴィトゲンシュタインは、論理哲学論考に結実しますが、この本、案外と芸術論考として読める。
論理で掬い上げられない、その隙間にこそ、想像と創造の伸び広がる余地がある。
しかも、記号論理の筋は、網の目のように世界を掴まんとしますが、水が握る手のひらから、指の隙間から漏れ零れ落ちるように、論理の筋から食み出す、際限のない果実の生る宇宙がある。
本ブログでも何度も書いたけど、論理哲学論考は、純粋結晶のような本。
原書で読めて、初めて大学に行ってよかったと思えた。

ただ、美術にしろ文学にしろ、創造のための肥沃の野は、あまりに広い。
論理は、驚異の世界の崖っぷちに立って、落ちかねない自分を制する手綱のようなもの。
自分を縛り付けもするけど、離れないほうが賢明な導きの赤い糸。
芸術と数学に限らない理系との両睨みの姿勢は続くかもしれないですね。

投稿: やいっち | 2012/11/04 22:22

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