雨滴のバラード
本を持つ手も何か落ち着かない。
読んできた本を書棚に仕舞い、これから読みだす本を手にしたばかり。
さすがのポール・オースターも物語の中に巻き込みつくしていない。
何か浮き足立っている自分。
それもそうだ、雨が好きなのだから。
雨の音、雨に濡れる光景。
何もかもが潤う世界。
貧相な我が心さえ、しっとり満たされるようでもある。
それが幻想と分かっていても、一瞬くらいは身を任せてもいいのかもしれない、なんて思いたがる心を許してやる。
カメラを持って外に出よう。
外に出て、濡れそぼつ世界を撮っちゃおう。
が、次の瞬間、我が家の庭の樹木たちの哀れな姿が目に浮かんだ。
雨が降って、さぞかし喜んでいることだろう。それは間違いないだろう。
でも、だからといって、日ごろのみすぼらしい姿が少しでもましになるはずもない。
それどころか、胡散臭い野郎が、雨の中、放置された粗大ゴミのように成り果てるように、庭の草木はただ肩身を狭く、小さくしているだけなのは、誰よりもわかっている。
分厚い雲が周囲を暗くしているからといって、その現実を如何ともしがたいことも、思い知らされている。
曇天の空以上に憂鬱になりかけた。
すると、閃くものがあった。
雨を見るんだ! という思い。
降る雨に嬉々としている風景をを眺望するのもいいけれど、雨そのものを見るほうがいい、そう、雨粒を見る、雨の滴を見る、これほどの楽しみがあるだろうか。
雨垂れ。甘ったれ。雨のバラード。バラバラの雨の雫、その変幻する姿をとことん垣間見ること。
肉眼の目より優れたマシンの目。
老眼の目じゃ、雨に敵うはずもない。
だからこそのカメラなのだ。
かといって、降る雨の一滴一滴の雫の姿を撮るのは、案外と難しい。
雨降る空にカメラを向けても、雨の雫はファインダーの先を嘲笑うように…いや、まるで気にせずに通り過ぎていく。
ここは逃げを打って、妥協して、台所のドアの外に見える、ケーブルに焦点を合わせよう。
いつぞやは、雨水がケーブルを伝い、湾曲する弧の最下部に集まり、最初は丸い形が、やがて垂直に楕円体となり、やがて重みに耐えきれず、水滴という塊が垂れ落ちていく光景を飽くことなく眺め呆けていたものだ。
今は我が手にはマシンの目がある、マシンの記憶装置がある。
肉眼に追いきれない雨粒のあられもない姿を撮り切り記憶に刻み、しかも雨粒の孤独で静かなダンスの像を再現してくれる。
ファインダーは老いて世界から遠ざかりゆく自分の肉眼には叶わない世界を現出してくれるはずだ。
世界の露わなる姿、赤裸の眺め。
それは今や我が手中にある…はずなのに、なぜか淋しい。
世界に直に触れることが叶わないから、だろうか。
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