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2012/10/30

倒木から拙稿を思い出した

 森の奥の人跡未踏の地にも雨が降る。
 誰も見たことのない雨。流されなかった涙のような雨滴。誰の肩にも触れることのない雨の雫。雨滴の一粒一粒に宇宙が見える。誰も見ていなくても、透明な雫には宇宙が映っている。数千年の時を超えて生き延びてきた木々の森。
 その木の肌に、いつか耳を押し当ててみたい。

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← 元の樹形など、想像だにできない哀れな姿。

 きっと、遠い昔に忘れ去った、それとも、生れ落ちた瞬間に迷子になり、誰一人、道を導いてくれる人のいない世界に迷い続けていた自分の心に、遠い懐かしい無音の響きを直接に与えてくれるに違いないと思う。

 その響きはちっぽけな心を揺るがす。
 心が震える。生きるのが怖いほどに震えて止まない。大地が揺れる。世界が揺れる。不安に押し潰される。世界が洪水となって一切を押し流す。

 その後には、何が残るのだろうか。それとも、残るものなど、ない?

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→ 断ち切られ、放置されている枝葉。風雨のなすがまま?

 何も残らなくても構わないのかもしれない。
 きっと、森の中に音無き木霊が鳴り続けるように、自分が震えつづけて生きた、その名残が、何もないはずの世界に<何か>として揺れ響き震えつづけるに違いない。 それだけで、きっと、十分に有り難きことなのだ。

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← ほんの数日前までの雄姿!

[我が家の庭の片隅に、その哀れな残骸を晒す倒木を見て、ふと、拙稿「石橋睦美「朝の森」に寄せて」を思い出した。今の自分には、こういう文章は書けない。もっと殺伐とした心しかありはしないから。]

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コメント

落葉でご近所と問題になるのは常ですが、このように無様に切られてもとよりも良かったと思う人がいるのでしょうか?

緑陰を得るにはそれなりの時間が必要です。

自分で処理するにしてももう少し枝葉の落とし方もあると思いますが、もしかしてお隣への嫌がらせ?

投稿: pfaelzerwein | 2012/10/30 14:54

pfaelzerweinさん

作業には、本文にもあるように、庭職人が使うような巨大な三脚風の脚立を使いました。
その最上段まで登って、ギコギコしたのですが、それでも、望ましい高さには届かなかった。
あと、一メートル、高いところに届けば、それなりの形に刈り込めたと思います。

思うようには伐採できない、その思いが、隣家への当てつけになれば、という思いに繋がっていなかったとは断言ができませんが…

ただし、隣家のご主人は、そんなことを気にする人じゃ、ありません!

投稿: やいっち | 2012/10/31 21:35

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