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2012/10/27

葬儀の際のトラブルを今、反省する(後編)

 まさにそこが私の甘いところ、半端な性分のなせる業(わざ)だった。

 Aさんは、その表は決定されたものと誤解された。
 自分は、Aさんに全面的に作り直されることを前提に、心は(喪主挨拶のことなどで)上の空なままに、供物割り振り表を作ったにすぎないのだが、Aさんは、自分が並び(供物の各親戚への割り振り)を任されていたはずなのに、それを勝手に表を作ってしまい、祭壇は私らの作った安直な、不格好な並びになってしまった。

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 あれでは、まるでAさんがあんな無様な並びを決定してしまったかのようではないか、自分の失われたメンツをどうしてくれる(親戚筋には、知恵袋的存在はAさんなのは、周知のことだったから、猶更)!

 顔に泥を塗られた、自分のメンツが丸潰れだ、おれは今まであなたに随分と親切にしてやってきたじゃないか。
 私が帰省するたびに食事に誘ったり、ドライブに誘ったり、あれこれ相談に乗ったりしてやったのに、それをあんなふうな仕打ちをされるなんて、云々。
 ちょっとやそっとの詫びでは済まない、などなど言われ、この不始末をどうしてくれる、と目に悔し涙(私に最後の最後で裏切られたという思いからだろうか)を浮かべつつ、難詰された。

 私は最後まで無言だった。
 心の中では、????だった。
 返す言葉が見いだせない以前の状態だった。

 自分としては、約束の時間(朝の十一時半)まで待ったつもりだった。
 実際、Aさん夫妻は約束の時間ぎりぎりに駆け付けてくれて、私が作ったお座なりの(つまり、Aさんにちゃんとしたものを作ってもらう前提の、万が一のために作った)表など、放り出して、新たに、父の時同様の立派な考えつくしたものを作ってくれると思い込んだ。

 私が作ったお座なりの表をAさんの奥さんに渡した段階で、供物割り振り表のことは私の頭から綺麗に消え去った。あとはAさんがちゃんとやってくれる、自分は喪主挨拶などのことを考えればいいのだ…実際、百人以上の面前で挨拶し、多少なりとも話をする機会など、あるはずもなかったし。

 私は、だから、葬儀の終わった翌日の早朝、Aさんに呼び出され、詰問されて、訳がわからない気持ちだった。
 弁解も言い訳もせず、黙り通した。
 Aさんが言われたことを、本当は自分のほうこそが言うべきだった、でも、その時は頭の中は空白、蒼白だった。

 実際、葬儀の日、斎場の祭壇を見て、一瞬、頭が真っ白になったのだ。
 話が違うじゃないか…
 どうして、私の作ったお座なりな表のままに祭壇の供物の並び(つまりは名義の並び)になっているのだ。
 Aさん、時間に間に合ったのに、どうして何もしてくれなかったのか、と問いただすべきは自分のほうじゃないのか。

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 何か誤解がある。何か手違いがあった。
 それがでも、その時は分からなかった。
 なので、私は黙り通すしかなかった。

 三回忌の日が迫る頃だったろうか。 
 何が悪かったのか(少なくともその一端は)ようやく腑に落ちた。

 これまで書いてきたことで察せられるように、要は私が最後の詰めをしなかったからなのだ。
 最後の詰めをしない、半端な性分が肝心のところで出てしまったのである。

 Aさん夫妻が来たとき、そしてAさんの奥さんが私の作った、仮の供物割り振り表を持って行った時、これは喪主として、万が一、Aさんが間に合わないとき、使うつもりで作ったもので、間に合った以上は、破棄していい、その一言で念を押すのを怠らなければ、すべては上手くいったはずなのである。
 肝心の一言が足りない自分。
 どうぞ作り直してください、私は葬儀のこと、喪主挨拶のことなどに専念します、それだけのことを言えば、Aさんらは、あとは引き受けてくれて、つつがなく仕切ってくれたはずなのである。
 ただそれだけのことさえ、念を押しておけばよかったのに…

 何も言わなくても、自分の作った表など、笑って不問に付し、新たにちゃんとやり直してくれる…という思い込み。
 舌足らずな自分だが、それが最悪の形で現れ事態を複雑なものにしてしまった。
 一言でいえば、間抜け、ということだろう。

 今となっては取り返しがつかないが、思えば自分の配慮のなさ、肝心なことへの心配りの足りなさのゆえに、どれほど多くの機会で周囲の人を傷つけたり、誤解させたりしてきたことだろう。
 頭の中では、周りは分かってくれるはず…というのは、幻想に過ぎない。
 あいまいな状況では、ちゃんと敢えて言葉にして相手に、周囲に伝えないといけないのだ。

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 これだけのことに気付くのに、葬儀の日から数えて二年を要した。
 言い換えると、葬儀後、二年間、この問題を引きずってきたということだ(恐らくは、これからもずっと、いつまでも)。

 いかに自分の神経(世間的常識)が半端なものか、知れようというもの。
 自分自身では、ある意味、今さらの現実だが、父母の葬儀でのトラブルを通じ、改めて自分の愚かしさを思い知らされたのだった。
 大切な信頼すべき親戚を、父母が亡くなったと同時に失ったわけである。
 Aさんが親戚でなくなったわけではないが、精神的には切られてしまっている。

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コメント

「肝心の一言が足りない」 - これは、日本語や日本の気風の特徴です。嘗て評判になった「甘えの構造」ではありませんが、特に血縁者などに対して「言わなくても分っているだろう」的な自己と同質化する傾向が強くて、そこには照れのようなものがあってじっくりと議論してみることが無いのが何処の家庭でも見受けられる特徴です。

「フーテンの寅さん」の喧嘩の原因と同じですね。そうした関係を地縁や企業内での人間関係まで広げて、「なにも言うな俺の目を見ろ」で通してしまう美意識で進めるとやはり短絡な文化や思索しか生じないということでしょう。「直ちに健康に影響がない」を言い訳する馬鹿もその象徴です。

「祭壇の供物の並び」ってお花とかなんかのなれべかたの順番のことですか?真宗が特別なのかどうかは分りませんが、これを呼んだ印象としてはヤクザの披露の時の順番とかそうしたものを印象しました。真ん中から端へ、上から下への階層ですね?

投稿: pfaelzerwein | 2012/10/27 17:20

pfaelzerweinさん

そう、まさしく、言わなくてもわかるという、恐らくは日本的な甘えの構造が、最悪の形で現実のものとなった事例ですね。

照れ、甘え、慣れ、云わぬが花……

きっと、夫婦の間では日常的に諍いの因になっているのでしょうね。

「祭壇の供物の並び」の問題は、田舎なればこその大問題(?)です。
メンツが懸かっている。
田舎で暮らす以上は、郷に入っては郷に従えです。
ホント、辛い。

投稿: やいっち | 2012/10/27 21:17

うーん、ちょっと理解できませんね。
母方の祖父母の葬儀は、すべて葬儀会社が仕切ってくれました。
トラブルは聞いていません。
義父の葬儀は、故人の遺志で身内のみ。
式はなく、火葬場で遺体を焼くだけです。
面倒はなかったし、故人とのお別れに集中できてよかったです。
ただでさえ、身内を失って悲しいのに、葬儀のことまで考えるのは苦痛ですよ。
私が死んだ時、娘に面倒をかけるのは忍びないと思います。
身内だけに見送ってもらいたいなぁ。

投稿: 砂希 | 2012/10/29 09:18

砂希さん

葬儀は葬儀会社が取り仕切ってくれました。
ただ、祭壇の供物の並びは、自分らで決めるしかない。
我が家でも表立ってのトラブルはなかったのですが、水面下は実に激しい!
無責任な、根拠のない噂が飛び交うし。
当の本人は置き去りですから、弁明さえ、できない。
田舎、田舎、田舎!

小生自身については、葬式は不要です。
妻子はいないから、喪主になる人もいないし。

投稿: やいっち | 2012/10/29 21:14

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