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2012/10/21

ある日

 フッと気がついた。無限に毒々しく広がる暗闇の中空を一匹の無様な虫が蠢く。ヒルだという直感。目を開けた、つもりなのだが闇は退いてはくれない。もしや盲目になったのでは……胸を突く恐怖……違う、目が見えないのではない、光がないと表現した方がいい、目の一寸先を真っ黒な物体が覆っているとも思える。彼の体。彼には横たわっているように感ぜられた。起きようとする。

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  (あれ!どうしたんだ、体がやけに重い、体全体が重くくるまれ圧されている風じゃないか!)と彼は思った。彼はもがいた、むやみにジタバタさせていた。と、一条の光がまぶしく彼の目を捉えた。日光が差し込んだのだ。朝、フトンの中のあがき……。

                 *          *

 いつものように天井が彼を睨んでいる。妙に揺れ止まぬ倦怠感、タバコの苦味、おどおどしつつ流れゆく意識、溜息まじりに彼は(ああ……やっぱり俺なのか)と自分を空しく確認する。のそのそとフトンから這い出して横たわった彼は、部屋の虚空を眺めながら、夕べの夢――目覚めとともに消え去った夢の余韻を愛撫する。大海の磯に打ち上げられた様々な物――例えば、貝殻、以前は人が愛着しただろう帽子、靴の類い、半透明の青磁の欠片の数々……――に人はある種の憧憬の念、郷愁などを呼び覚まされ、愛惜するように、それらのひとつひとつに思いを寄せる。彼はそんな風に、夢の中に居ただろう夜のひと時を憧れる……が不意に空しそうに、(無為なことだ)とばかりに夢の中身を辿るのを諦めた。
 温かく優しさに満ちた寝床の中、彼はもう少しまどろもうかと、しばし迷っているふう。温かく柔らかな胎内世界、それは遠い頃の記憶、空しい理想、果たされぬ願望……(馬鹿な、何を諦め切れずに居る)と、彼は寝床を離れた。時計は十一時を指している……。

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                 *          *

 何かに誘われるように下宿を出た、別にあてはない、学校へ行ってまず飯を食うことが先決だ。
 N橋付近。川面は日の光を千々に乱して照り返している。その中の一条の光は彼の目を射止め、頭中へ、心の中へ差し込み夢幻の夢想を彼に強いた。小説の一場面なのか、いつか見た夢なのか、全くの空想なのか判然としない想いに、彼の歩みは妨げられ、彼は知らず、冷たい手摺に身を寄せた……。

宴、それは華やかで晴れがましい宴だったろうか、それとも祭り、楽しく激しく<生>を燃焼させる祭りだったのか、キャンプファイアーのようにも思える、とにかく夜、その中に自分は居た。自分は遠い覚めた心で他の人々の仕草を、充実しきっているとでも言いたげな喜怒哀楽を、見詰めている………篝火、その周りを腕組み肩組み、紅潮し熱気を含んだ頬で人々は踊っている……踊っている。自分はひとり、木陰の下、あの世界を憧れていた……
 照り映える光を彼は<正気>に戻した。彼は再び気を取り直したように歩を進めたが、先程の余韻はまだ残っていて心は塞いでいる。また、妙なイメージが彼を捉えようとして心の隙をうかがっている。彼は必死に抵抗する、しかし反抗という固い冷たい態度を取れぬ彼はやがて、そのイメージに圧されていった。心の中は一変する。黒っぽい霧が降る、霧がやがて雨に、そして心の地上世界を灰色に塗り潰していく。天には暗黒の雲が覆っている……はるかな地平線の片隅から一点の黄色っぽい抜けるような白熱の穴、それがやがて拡大し、醜悪な心に充満する。

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遠い細波、無音の音が彼方から直接聞こえてくる。海岸、海もその波も白けきって白い砂漠のよう……人気は少ない、空洞のような陽の光はか弱く、見る眼に肌寒い。ある人が腹這いになって体をくねくねさせながら蠢いている、ブラームスだ。誰かにブラームスは真実に悲劇の人なのだと聞いていたが、そういえば先日、彼の一番を聞いたばかりだった……彼は軟体動物の如、波打ち際から――ちょうどそう、海棲動物が陸棲になったばかりという雰囲気を漂わせるふうにして、少し小高い砂浜を陸の方へ向かっている。陸の方は視野に入らない、彼の表情も分からない。ああ、真の苦悩の中を生きていたのだなという感慨が、幾分ためらいがちに、きまり悪げに、心の内に湧いてくる。彼への自分の心情は純粋ではない……一条の雷光にも似た激情が走った。
 昼下がり、じりじりと照り付ける太陽……しかし陽は彼にまでは届かない、彼の影は朧、影の内を虫が一匹走っていた。残像が苦く彼に圧し掛かっている、目は石畳の目をじっと追う……
 学校にどうやら着いた。校内を彷徨って居所の見つからぬ彼、食堂の隅にようやくわずかな余地を見出した。
 食事という儀式の後、雑記帳と原稿用紙を取り出し、レポートの案を練る、振り。頭が重く垂れ込んでいるふう、無様で無意味に技巧の多い文章ばかりが浮かんでくる。彼は一字毎に嫌悪を覚えながらも、先を進めていく。退屈、煙草、灰皿、原稿……馬鹿みたい、様々な色の粘土をこねて出来た不細工な物体、そんなふうのレポートが成る。こんなものを読んで他人は理解出来るだろうか、と彼は思い惑った。
(まあ、いいさ、理屈をこねて書くよりよっぽどましだろうから)

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 窓の外からデモやアジの声、隣りには男女の会話。
(疲れた、何時間か潰せたんだから、そろそろここを出てもいいだろう)
 一番町、書店で二時間、今五時、冬、もう夕闇が迫っている。暮色に彼の吐息は白い。 遠目に少女の横姿、何故かせわしない足取り、やがて後ろ姿になった。俯いて、あらぬ一点を見詰めながら歩を進める様相は、以前の彼にはロマンチックな空想をさせるに十分のものだった……今、少女の姿を追う彼は、苦いどす黒い想い出に苛まれる……何年か前のこと、誕生日に小さな小包が届いた、母からそれを手渡されたとき、彼はぎごちなく嬉しそうな表情を作った。それはある女からの贈り物、誕生日のお祝い、というわけだ。翌日の朝早く、急ぎ足に道をたどってG川へ、そこに昨日の贈り物を捨てた。
(馬鹿だ、あの女は、俺に、よりによって誕生日にあんな代物を、あんな添え書きを入れて贈るなんて、可笑しくって涙も出ない……)
 先程の少女の姿はいつの間にか消えていた。彼はあれこれの思念に倦み疲れ、(どうだっていい、関係のないことだ)とうそぶく。
 彼の幼い頃から愛惜した女の後ろ姿、それは彼の心を自由にし、いつも無辺大の空想を彼に許すものだった――彼のひきつるような表情、遠い出来事。

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                 *          *

 夜の街の雑踏の中に居る彼は、生体中の異物のよう。人々は皆して示し合わせて、一塊の生物体の様相、彼はその生き物に白目で見られ、人の群れから弾き出されるように人影のまばらな通りに来ていた。人々、それは確固としていて、存在のよう。彼はその存在を前にしてひるみ、恐れおののいている。彼は自身をこう感じている……
(俺は人血に吸い付こうとする蛭のような存在の欠如なんだ。緊張、不安そして焦燥のみが惨めに在らしめているような存在の無なんだ)
 彼はまたこうも思った。 (俺には居るべき場所などないんだ……帰ろう、帰って寝て、どうにもならぬこの身なら、せめて意識くらいは忘れ去ろう……)
 彼はネオン灯る街の中、重々しく寂しげな影を引き摺りながら家路を辿った。
 夜空、星が一つ、美しい、あの世界に居れたなら……角を曲がったために星が二つ見えて興醒めした、それで首を少しのけぞらして一つしか見えないようにした。一つの星、祈り、道を別の方に向けると月が美しい、上弦の月なのか、ちょっと欠けている、彼は心に思った。
(何故俺はここに居るのだ、あの月世界に居ないのだ……どうして俺はこんな人間で、他の人間ではないのか……星、馬鹿馬鹿しい、どうだっていい……)
 彼は身震いした。
(寒いんだな)

                 *          *

 夜道、水溜りがいくつかあるようだ、爪先立ちして用心。先の方に黒いかたまりが体をくねらせている、月の光、黒っぽかったのが白く浮かんで見え、水溜りと分かる。
(濡れないように歩けるかな……ああ、通れる程の隙き間がある)
 彼は間を通っている時、透き間が狭まるかのように怯えている。渡り終わって彼は振り向いた。闇、背後世界は真っ黒の空間が迫っているだけ。

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                 *          *


 下宿にたどり着いた。心はもうくたくた。

 部屋に閉じ篭って心の張りのいくばくかを解いた彼。しかし緊張の巣のような彼の心は弛緩しきることは決してない。言い知れぬ不安は他愛もなく彼を宙に舞い上げさせ、彼は虚空に居て、星を探し、
(星よ、悪魔よ、まどろみを)と願った。彼は心のまわりに愚昧な防護壁を作り、作り終わったと確かめた頃、目を閉じ、心を閉じる。
 彼の一日、無為な時はこうして過ぎ去った。


                                 了

[本文は、1973年1月、同人誌に公表したモノローグ風の創作。挿入画像は、ここ数日撮影の富山市点景の数々。]

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