「鞦韆」はブランコと読む
昨日は、ほぼ終日の雨。
幸い、風はほとんどなく、傘が役に立つ。
雨となると、営業は忙しくなる…はずなのだが、忙しいのか、実際には大したことはないのか、つかみどころのない一日だった。
→ 向かい合いブランコを漕ぐ少女たち (画像は、「ブランコ - Wikipedia」より)
景気が悪く、以前のように、雨が降ったから行き着く遑もないほどに忙しい、なんて、うれしい悲鳴を上げることは皆無である。
売り上げはさっぱりだが、営業の回数だけはやたらと増えていく…
それでも忙中暇ありで、ほんの数頁、本を覗き見た。
今、車中での友となっているのは、相変わらず、田山花袋作の『東京の三十年』(岩波文庫)である。
なかなか面白い。当代においては、それなりに交流も活発で広く、島崎藤村、柳田国男、国木田独歩、森鴎外、斉藤緑雨、川上眉山…と、錚々たる面々が登場する。
古き良き…失われた東京の面影を偲ばせてくれることは、言うまでもない。
ところで、この本を読んでいたら、「鞦韆」という表記の熟語が出てきた。
感じの素養もない小生を慮(おもんぱか)ってだろうか、「ブランコ」とルビが振ってある。
ええっ、これをブランコと読む?
仮にルビが振ってなかったら、小生などは、韃靼(だったん)と読みかねなかった。
小生の素養では、パッと見た感じ、「鞦韆」と似た熟語というと、韃靼(だったん)くらいしか思い浮かばなかった…というのは、ここだけの話である。
← 田山 花袋【作】『東京の三十年』(岩波文庫) 『布団』じゃないが、拙作の「ある日」を覗いてみるのもいいかも。
韃靼(だったん)なる言葉を知っていたのは、歴史が好きってこともあるが、安西冬衛の有名な詩、「てふてふが1匹韃靼海峡を渡って行った」の賜物である。
そういえば、何年か前、「躑躅(つつじ)と髑髏と」なんて雑文を綴ったことがある。
これも、躑躅(つつじ)と髑髏(どくろ)とが、表記の上で似ていることなどをネタに騙って(?)みたもの。
他にも、小難しい漢字の魔力に頼り切った、「鬱勃の闇」という詩文(?)がある。
思い浮かぶままに、表記の難しい漢字を並べたててみただけの小文である。
さて、せっかくのなので、「鞦韆」について調べてみた。
例によって、てっとり早く、「ブランコ - Wikipedia」に拠る。
改めて説明するまでもなかろうが、「ブランコは、座板を支柱や樹木から鎖や紐などで水平に吊るした構造の遊具」である。
もう、下手すると半世紀、乗ったことがなような気がする。
あるいは、学生時代、公園で、友と二人、所在無く、揺らしてみたことがあったような気もするが、確然としない。
「ブランコ - Wikipedia」を覗いてみたら、「鞦韆(秋千、しゅうせん)ともいう。「鞦」「韆」はそれぞれ1文字でもブランコの意味を持つ。「鞦韆」は今でこそブランコの意味を持つが、古くは中国で宮女が使った遊び道具をさす。いまのブランコとは少し違い飾りがたくさんついており、遊戯中、裾から足が見えて、皇帝が見ていて運よく夜伽に呼ばれる可能性から艶かしいイメージを持たれていた。北宋の文人、蘇軾の漢詩「春夜」にも鞦韆が出てくることから、性行為の過程を詠んだという解釈もある」などと興味深い記述に恵まれた。
→ 庭では、シュウメイギクが真っ盛り!
本稿の主題からは、「鞦韆(秋千、しゅうせん)ともいう。「鞦」「韆」はそれぞれ1文字でもブランコの意味を持つ」という下りだけでも十分なのだが、そのあとの記述も魅惑的で、この一文に遭遇できただけでも、この気まぐれな日記をものした甲斐があるというもの。
「ぶらんこ」の語源についての話も興味深いが、今日は深入りを避けておく。
ふーむ、ブランコには艶めかしいイメージも付きまとっているのか…
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