富山と田圃と私
父祖の代よりの百姓家
我が家は父祖の代よりの農家だった。父の祖父の代に本家から多少の田圃と共に分家したのである。もっとも、父の代になって父が国鉄に勤めたこともあり、兼業農家になったが、しかしそれでも一昔前まではそこそこの米を作っていたし、畑もあったのである。
→ 近所にわずかに残る田圃。我が家にはもう田圃はない。
それが今、風前の灯の状態にある。それというのも小生という甲斐性のない息子が出来たばっかりに、せっかくの農地も畑も年々削られ、今は、我が家の前に自家で食べる分の米が取れるだけの僅かな農地しか残っていない。
しかも、それさえも既に人手に渡っていて、地の利の関係で譲渡先の方が今は使えないので、管理する形で細々と父母二人で米を作っているのである。
が、父母が先祖への思い入れもあって敢えて細々とやっている農作業さえも、年々苦しくなっている。父も国鉄を退職した頃、体調を長く崩していたし、母も長年の糖尿病に苦しめられてきて、父母ともに体力の低下は否めない。
十年程前から小生はせめてもの罪滅ぼしというわけではないが、田植えだけは手伝うようにしてきた。東京住まいの小生は盆と正月に帰省するだけだったが、90年代に入った頃から5月の連休にも帰省するように努めているのである。
不謹慎な言い方かもしれないが、父母が元気なうちに一緒に農作業の一端でもいいからやっておきたいなどと、殊勝な思いに駆られてきたのだ。
富山と水
(略)
田植えをする
春先には蓮華草の咲き誇っていた田圃に水を張った中を、裸足になって田植え機を押して歩く。泥田に嵌った足をヌポッと抜いて、また、次の一歩を踏み出す。田植え機をテンポ良く押していかないと、この数年は目印となる線を引いていないので、まっすぐきちんと田植えをすることが出来ない。
土の中には数知れない虫たちが生息している。蛭にも似た虫が脛に張り付いたりする。 でも、数年前、水虫だった足が、泥田に浴したことで、呆気なく直ったのは不思議な体験であった。
農協で準備される青いプラスチックの箱に入った苗を少しずつ田植え機に移して、植えていく。けれど、田圃の端のほうは、どうしても手植えになる。大概、数箱残る苗の塊を手で千切っては、ほんの数本ずつ、それこそ2,3本ずつ植えていくのである。
天気さえよければ田圃の泥は手に生暖かい。土と水と幾ばくかの小さな生物たちの感触を味わう。少なくとも西日本の各地で遠い昔から、田に面して多くの人々が生きてきたのだ。
但し、瑞穂の国と言えるほどに稲が日本全土に広がったのは、ほんの近年のことに過ぎない。大体、農家にしても、自前の田圃などなかったのだし(多くの農家が自前の農地を持てるようになったのは、戦争に負けて、アメリカ軍の手で農地解放が実施されてからのことだ)、あっても、それは自分たちの口に入るわけではなかったのだ。稗や粟、野菜や穀類の類いを細々と食いつないで来たのである。
我が村も貧しい農地だったようである。また、近隣の人々同士の間での軋轢がなかったわけではない。
さて、3年前から親戚から譲り受けた古い田植え機を使っている。田植え機を使い始めたのは、実は、ついこの間のことなのである。
慣れない機械を動かしながら裸足で田圃を行ったり来たりしているうちに、つい、小生が未だガキだった遠い昔を思い出してしまう。
家族総出で、時には近所の人たちと一緒になって田植えをする。田植えと稲刈りは農家にとって祭りに近い感覚を与えてくれるものである。幾人もの人たちの分の食事の用意をしつつ、散在する田圃を荷車を押して回ったりする。田植えの終了を見計らうように春の祭りが、あるいは、稲刈りという一連の大仕事が一段落着く頃に秋の祭りが実際に開かれたりするのだ。
確か、今は薬品会社になっている辺り、今はすぐ近くに移転したが農地を手放してすぐまでは保育所のあった辺り、などに田圃があったように記憶する。
田植えをする前に田植えする列を田圃に木の枠で作ったコロをまわして植えるための目印となる筋を刻み込む。
その列に沿って総出で一つ一つ植えていくわけである。気の遠くなるような作業が蜿蜒と続く。
自分はほとんど手伝った記憶がない。ただ、忙しく働く皆の周りをウロウロしていただけだったのではないだろうか。
手伝えと言われた記憶もない。姉達は近所の人たちと一緒に結構、精を出していたようだったけど。
秋には実った稲を刈り込む。それも昔は鎌でひと束ひと束、手作業で刈っていったのである。刈り取りが機械化されたのはいつの頃だったろうか。
刈り取った稲は稲架に掛けて日に晒す。
更に、今は父母の寝室になっている辺りに10条ほどの広さの土間というか作業場があって、そこで脱穀である(その土間では年末には餅つきをする)。やがて、その土間一杯の刈り取られた稲の山が、籾の山に変わっていく。その空間に溢れ返る稲の放つイガラッポイやや黄色味を帯びた霧状の粉。
とにかく米作りは手間隙が掛かる。
そのほんのかすかな片鱗を今になって、追体験しているわけなのだ。ところで小生は今でこそワープロやパソコンで創作を試みているが(というより原稿用紙に向かって創作を試みた記憶がここ10年以上ないのだが)、それでも書くという行為を不意に田植えに似ていると感じることがある。否、何処か抽象的な空間に向かってはいても、自分なりの田植えを架空の田に今も試みているのだ…。
肥溜め
(略)
馬小屋
さて、その肥溜めの手前、家屋寄りには小屋があった。古い木造の小さな平屋の建物で、建て付けも相当に悪くなっていたように記憶する。中には藁床が分厚く敷かれてあった。何のためにあるのか自分には分からなかった。ちょっとした物置にでも使われていたのだろうか。時折、かくれんぼというわけではないが、その小屋の藁床に埋もれていたような気がする。
その小屋の正体が分かったのは、つい先年である。父母等と車でドライブした時、何かの話の流れで、その小屋が実は馬小屋として昔、使われていたものだと知ったのである。 が、小生は馬の記憶は全く、残っていない。
姉に聞くと、そういえば昔、我が家に馬が居たっけと言う。上の姉は馬の背に乗せてもらったことがあるとも述懐した。父によると、馬に荷車を引かせて、富山の我が家から高岡まで(約20キロ!)歩いたものだという。
高岡は母の郷里である。その母の郷里の農地まで手伝いに行ったのだろうか。
← 庭の片隅のミカンの木。今年は実がたくさん、生りそうだ。
池と鶏小屋と蛍狩り
(略)
風呂とドラム缶と日記と
(略)
(「富山と田圃と私」(01/05/20)より抜粋)
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コメント
はじめまして。
ふとしたことから水虫の治療法について研究している徳田といいます。
泥田で水虫治った事例、はじめて聞きました!!
驚きです。
いろいろな要素があるとは思いますが、もしかしたら蛭とか何か関係あるかもしれませんね!
とりあえず、google先生に似たような事例がないか調べてみようと思います。
おもしろいですね~!
投稿: 水虫治るんですかっ | 2012/11/03 08:19
古い記事へのコメント、ありがとう!
田圃で水虫が治る…というのは、俗説かもしれません。
逆に、田圃で足に虫がつくことから、水虫という名称が生まれたという俗説もありますし。
ただ、足の裏の水虫(白癬菌)は、天敵のいない菌にとっては天国の状態。
田圃に素足を付けると、数知れない種の菌と遭遇する。
その中には、白癬菌の天敵もいるので、少なくとも白癬菌には辛い状況。
それに、白癬菌は、長く水の中に浸かっていると生きづらくなる。
田圃に数時間は素足を付けているわけだから、白癬菌退治の可能性もあるわけです。
でも、これも、俗説の類かもね。
投稿: やいっち | 2012/11/04 21:35