マンデルブロの『フラクタル幾何学』へ
過日、源氏鶏太著の『銀座立志伝』(集英社文庫)を読み始めた。同氏の作品を読むのは、恐らく初めて。
← B・マンデルブロ=著『フラクタル幾何学 上』(広中平祐=監訳 ちくま学芸文庫) 「「フラクタルの父」マンデルブロの主著。膨大な資料を基に、地理・天文・生物などあらゆる分野から事例を収集・報告したフラクタル研究の金字塔」といった本。広中平祐=監訳ってのがすごい。
富山出身の作家なので一度は読まないと、という義務感で読みだしたが、冒頭の数十頁で、どうにも我慢ならなくなった。付き合いきれない。
なので、読むのは時間の無駄と、放棄し、上掲書を読むことに。
上下巻、合わせて千頁以上の大著。カオスやフラクタル、その前にはカタストロフィなどが流行って、カオスやフラクタル関係の本を読み漁ったが、肝心の『フラクタル幾何学』は、大部だし、手が出せずにいた。
今になって…
でも、文庫本に入ったことを幸いに、今、改めて読む!
車中では、源氏鶏太著の『銀座立志伝』に変わり、田山花袋作の『東京の三十年』(岩波文庫)を持ち込んで読むことに。
『布団』や『田舎教師』などの代表作しか読んだことのない、必ずしも強い関心を抱いていない作家の回想の本だが、読みだしてみると、その交流の広さに驚く。
畏敬する藤村とも深い付き合いがあるし、文壇の交流録、それ以上に、今は無きかつての東京の面影を辿るに、恰好の本だと分かった。
それはともかく、昔の人はホントによく歩くと感心する。
地名を挙げて、道のりを説明してくれるので、ええー、あそこからあそこまで歩いたのか! と驚くこと、再三。
それが当たり前だったといえば、それまでだが、とにかく歩く、歩く。
思えば、小生にしても、大学生となって仙台で暮らし始めた頃は、我ながらよく歩いたものだ。
通学にはバスを使ったりもしたが、帰りはセンチな気分になることがしばしばだったせいもあり、歩いて帰ることが結構、あった。
その頃の気分をあざとく(?)表現した掌編に、「ある日」がある。
小生の処女作品である。
バスを乗り継いで学校までは一時間半。
それが、歩いて帰ると、直帰の場合、やはり一時間半なのが面白かった。
最初の下宿の家でも一時間半だったし、二年を経過して引っ越した山手のアパートも同じ時間を要した。
山手のアパートからは、朝から歩いて学校へ向かったこともしばしば。
← 田山 花袋【作】『東京の三十年』(岩波文庫) 『布団』じゃないが、拙作の「ある日」を覗いてみるのもいいかも。
高校時代、哲学史の本を読んで、逍遥学派(ペデストリアン)という言葉を知った。
古代ギリシャの哲学者らは、子弟が歩きながら哲学談義をしたという。
若くて感傷に耽ることの多かった自分でもあったし、哲学や文学などを巡って、ロマンチックなセンチメントを、歩くことで一層、味わっていたのだ。
いっぱしの哲学者気取りだったのかもしれない。
何度か、まっすぐに帰らず、仙台の町を半日、歩き続けたこともあったっけ。
そういえば、上京し、西落合(中野)に暮らしていた頃も、幾度となく、会社のあった大久保から自宅まで、かなりの時間を費やして歩いて帰ったものだった。
切ない恋心を持て余しながら…
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コメント
歩くとなにかしら、発見がありますよね。
この家はどうだ、とか、この店は潰れたのかとか。
自転車や車で目的地まで一直線、だとこうはいかない、見えるものも見えない。
逍遥学派懐かしいですね。僕は京都の哲学の道だな。
ところで弥一さん、ツイッターで、リツイート希望って先ほど書き込まれていたけど、何をリツイートするの?
投稿: oki | 2012/10/20 21:59
okiさん
歩くことは好きでした。
若い頃は、少々センチだったこともあり、結構、歩いた、歩き回った…
自転車を駆っての散策も楽しい。
それが今は、用事があるだけの外出。
せっかちというか、慌ただしいというか、せわしないというか、とにかくゆとりがない。
そう、心のゆとりがなくなっている気がします。
逍遥はともかく、哲学の基本は歩くことだと、いまさらながら、つくづく感じます。
京都の哲学の道、昨年の入院の際、念願叶って、歩くことが出来ました。
投稿: やいっち | 2012/10/22 21:08