夢ループ
口の中は、溶液状のバリウムでいっぱいだ。
乾くことを知らない粘土が喉の奥から途切れることなく湧き出てくる。
近所のガキどもが戯れるクレイソープのようでもある。
いや、このどこかパサパサした感じは紙粘土か。
早く吐き出さないと口の中が埋まってしまう。
けれど、すぐ近くには人がいる。
知っている奴だ。
恥を晒したくない。
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口の中は、溶液状のバリウムでいっぱいだ。
乾くことを知らない粘土が喉の奥から途切れることなく湧き出てくる。
近所のガキどもが戯れるクレイソープのようでもある。
いや、このどこかパサパサした感じは紙粘土か。
早く吐き出さないと口の中が埋まってしまう。
けれど、すぐ近くには人がいる。
知っている奴だ。
恥を晒したくない。
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小生がガキの頃、お袋がよく近所の人とかに「この子は早生まれだから…」と言うのを聞いた覚えがある。
同時に、その言い方の中にかすかに言い訳がましいニュアンスが含まれていることを、幼いながらに感じていた。
鈍感な小生は、思春期も大分過ぎてから、ようやく「早生まれ」の意味が理解できるようになった。そして、何故にお袋が弁解口調で語っていたかの訳も。
早生まれというのは、「1月1日から4月1日までに生まれた人のこと」である。この4月1日というのには、微妙な意味合いがある。「法律上で1歳年をとるのはいつかという区切りについては、民法第143条の《暦による計算》がその根拠となってい」るという。詳しくはこのサイトを参照してほしい。
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一気に秋めいた気候になった。
朝晩どころか、日中さえ、寒く感じられる。
つい先日までの猛暑の名残で、いまだに半そでなのがまずいのだろうが。
← スタニスワフ・レム著『高い城・文学エッセイ』(沼野 充義 巽 孝之 芝田 文乃 加藤 有子 井上 暁子【訳】 スタニスワフ・レム コレクション 国書刊行会) 本書は、『ソラリス』(沼野充義訳)と共に借りてきたのだが、ある意味、『ソラリス』以上の収穫だった。特に、表題の「高い城」は、自伝のはずなのだが、とんでもなくハイブローな文学論。そもそも、レムの批評はSF論を軸にしているが、並みの文学論の書き手よりはずっと読みが深いし、分析が鋭い。知能指数が180ってのは、伊達じゃない。論旨についていけない場合がしばしばだが、それでも、示唆的なのである。
スタニスワフ・レム著の『高い城・文学エッセイ』(沼野 充義 巽 孝之 芝田 文乃 加藤 有子 井上 暁子【訳】 スタニスワフ・レム コレクション 国書刊行会)を再読した。
図書館から借りだして読んだものだが、エッセイの舌鋒の鋭さが印象に強く、敢えて購入しての再読なのである。
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過日、夜、富山の郊外を走る機会に恵まれた。
夜中ではないが、ちょっと郊外に出ると、街道沿いであっても、人影はなく(少なくとも走行中、一人しか見なかった。その人は、トンネルの中をマラソンしていた)、悲しいかな猫の死骸を一体、路肩に見かけただけである。
富山市の町中から、ほんの三十分も走ると、人家は、街道沿いの家々だけになる。
さらに三十分も走ると、山間の峠道、川の源流に沿って作られた街道が延々と続くだけになる。
片側は川へ続く断崖、別の側は山の斜面であり、往々にして崖のように道に迫ってくる。
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近い将来の日本のエネルギー構造に占める原発の割合をどの程度にするか、ゼロを目指すのか、議論は揺れている。
世論の過半や政府の一部などは、「二〇三〇年代に原発稼働ゼロ」さらには「太陽光や風力など再生可能エネルギーの比率を、現在の約1割から3割に増やす」と主張している。
一方、そんなのは机上の空論だと、産業界や読売、産経新聞などは反論に懸命である。
つまり、原発の代替電源をどこに求めるのか、再生可能エネルギーは、どの程度までの普及が可能なのか、先が読めないではないか。
当面は、火力などに代替を求めるとしても、化石燃料を輸入せざるを得ず、エネルギーコストが高すぎる…云々。
小生は、再生可能エネルギーという観点よりも、寝た子を起こすエネルギー源なのか否かに、今後のエネルギー源を求める基準を求めるべきだと考える。
まずは、再生可能エネルギーとは何ぞや。
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過日、福光美術館にて開催中の向井潤吉展に行ってきた。
すると同館内の市民ギャラリーにて、「越中民家解剖学 人の暮らし展 ―長谷川和衛ペン画の世界―」が催されていた。
せっかくなので、覗いてみる。
→ 「越中民家解剖学 人の暮らし展 ―長谷川和衛ペン画の世界―」 手元の画像は縦になっているのに…
観客は小生一人である。
一人静かに眺めて回ろう…、そんな思惑はあっさり崩れた。
ギャラリーの真ん前の休憩所に待機していた、まさに長谷川和衛氏がわざわざ説明にと、立ち上がってこられたのである。
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暑い中、車中での待機の折に読んできた、岡本 綺堂【著】の『読んで、「半七」!―半七捕物帳傑作選〈1〉』(北村 薫 宮部 みゆき【編】 ちくま文庫 筑摩書房)を、今日、自宅で読了した。
残り、数十頁になったので、次回の営業の際、待機中の読書の際に読みそうなので、自宅に持ち帰り、残りを一気に読んだのだ。
← 岡本 綺堂【著】『もっと、「半七」!―半七捕物帳傑作選〈2〉』(北村 薫 宮部 みゆき【編】 ちくま文庫)
引き続き、同じく北村 薫 及び 宮部 みゆき編の『もっと、「半七」!―半七捕物帳傑作選〈2〉』を、やはり車中で読むことにする。
この仕事は待つのが仕事か、と思えるほどに待つ時間が長い。
そこが東京在住時代とは違うところ。
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「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」などと、知れたようなことを嘯く文化人がいたような。
もしかしたらそのお方は一度も泣いたことがないのか、あるいは、泣いた経験から遠ざかって久しい、涸れた人間なのかもしれない。
泣くにも程度もあるし、事情もあるし、かの文化人はどういう状況を想定して決めつけるような、何か新奇な文言を吐いたのか、もう忘れてしまった。
→ 「大師ヶ岳」 過日、野暮用で、大師ヶ岳頂上近くに行く機会があった。二上山丘陵の北部に位置する、高岡市と氷見市に跨がる山。標高253.6m。ハイキングコースでもあるらしい。
少なくとも小生の直近の涙を流した経験からすると、号泣や慟哭のような激しい泣き方ではなく、感泣というか嗚咽のような泣き方だったのだが、それでも、こみ上げるものがあり、目の周辺がうるうるプルプルし始め、間もなく涙が溢れ出す、という風だった。
小生は、上掲の文化人にことよせると、涙がとめどなく流れることで、悲しみの度合いを思い知った…とは云える。
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今日は昨夜来の雨が断続的に続き、ほぼ雨模様の一日。
久々、外仕事をさぼれる。
雨は恨めしくもあり(雨で銭湯へ行けなかった)、小生には恵みの種でもある。
← スタニスワフ・レム著『高い城・文学エッセイ』(沼野 充義 巽 孝之 芝田 文乃 加藤 有子 井上 暁子【訳】 スタニスワフ・レム コレクション 国書刊行会)
ジョン・D.バロウ著の『コズミック・イメージ 美しい科学1』(桃井緑美子訳、青土社 )を読了。
バロウの本(訳されたものに限る)は、概ね、読んできた。
彼の本のファンのようなもの。
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今日は晴れていたのに、珍しく外仕事をしなかった。
というより、ほかのことで忙しかった。
← ジョン・D.バロウ著の『コズミック・イメージ 美しい科学1』(桃井緑美子訳、青土社 )
といっても、野暮な話。
近所の小生御用達のクリーニング店が閉店のまま。
カーテンが閉め切られている。
でも、表(入口)の窓には、一切、断り書きのビラは貼られていない。
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過日、富山市は八尾で毎年催される、「おわら風の盆」へ行ってきた。
といっても、仕事である。
タクシードライバーとして、現地のタクシー会社の応援要員として駆り出されたのである。
この祭りには、会期である三日間の間に(警察の発表した事前の見通しでは)26万人の観光客が来る。
とてもじゃないが、現地のタクシー会社の車両(ドライバー)だけでは対処できない。
その日の早朝、出社すると、八尾へ行くかと打診されたのだ。
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今日も小生、畑仕事。
雑草狩り。
今日は二筋分、やった。あと一筋で畑の雑草退治はとりあえず、終了である。
防草シート張りも、あと二十メートル分を張り付ければ、畑は完了。
庭も畑も、実際に樹木や野菜、花類の育つエリアだけ残し、あとは防草シートで覆われたことになる。
しかし、防草シートも万能ではない。
実際、春先に施した防草シートの黒い網目の隙間から雑草が顔を覗かせている。
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孫崎 享【著】の『 戦後史の正体―1945‐2012』(「戦後再発見」双書〈1〉 創元社)を読み始めている。
なかなか刺激的な内容の本だ。
← 孫崎 享【著】『 戦後史の正体―1945‐2012』(「戦後再発見」双書〈1〉 創元社)
あるいは議論の余地のある情報も多々あるのかもしれないが、とにかくウロコが落ちるような事実があまりに多い。
このような本が過去になかったことも不思議だが、このような本が外務省の主流派(アメリカ追随派)ではなく、やや傍流(?)路線を歩いてきたとはいえ、外務省OBが書くってことに驚く。
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残暑厳しい折、営業中の車中での楽しみは、暇を見つけての居眠り、遭遇した景色(素敵な人)眺め、そして読書である。
この数か月、なぜかまた綺堂が読みたくなった。
そう、「半七」の岡本綺堂である。
← 岡本 綺堂【著】 北村 薫 宮部 みゆき【編】『読んで、「半七」!―半七捕物帳傑作選〈1〉』(ちくま文庫 筑摩書房)
何年か前、帰郷して間もない頃、自転車を駆って市立図書館へ行き、CDやら本やらを借りまくった。
そんな折、岡本綺堂が不意に読みたくなり、図書館にある文庫本を読み漁った。
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