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2012/08/07

お墓掃除

 午後の三時過ぎ、炎天下、自転車に乗り、近所にあるお墓へ、墓掃除に行ってきた。
 近く父の月命日だし、お盆も近い。
 お昼過ぎ、妖しい風が吹きまくった。やがて間もなく、雷雨。
 久しぶりの雨。人間もだが、庭や畑が喜んでいる!
 なので、荒れた天気はすぐに収まり、晴れ渡ったが、気温はやや低い。麦わら帽子も被る必要を感じなかった。

 過日の三回忌に際し、久しぶりに墓参りに来てくれた方もあり、お墓が若干、汚れている…はず。
 お盆前に、改めて綺麗にしておきたい。
 お墓を洗うための水を用意。
 チリトリ、箒、除草剤、園芸用のハサミ、ポリ袋、などなども用意。

 云うまでもないが、お墓掃除の前に、仏花や仏菓子などを買い、仏壇に供えた。

 以前、写真で紹介したが、我が家のお墓は、吹きさらしの墓地の一角にある。
 古くから我が町…昔は村だった…に住み着いた人たちは、村のお寺の墓地に何故か入れず、昔は村の外れに墓地を作った。
 作られていった経緯は知らない。
 数十年前までは、我が家の田圃の一つもお墓に遠からぬ場所にもあった。
 我が家のお墓は、墓地の中の幾つかのお墓の中でも、一際、古びている。

 大概のお墓は、次々と新しく建立された。
 ほんの数基のお墓だけ、半世紀以上昔に建立されたまま。
 我が家のお墓は石が朽ち始めていて、苔むしているのは勿論、石と石とのつなぎ目などが脆くなっていて、下手にタワシなどで擦ると、ポロポロ、砕けてくる。
 優しくスポンジで水洗い、である。

 仏壇もお墓も半世紀以上昔に備えられた、そのままなのである。

 三回忌に際してお墓参りした方が生けた仏花は、枯れ果ててコンクリート面に転がっていた。
 ほとんど溶けたロウソクの残骸、線香の燃え滓などと併せ、拾い集めポリ袋へ。

 除草剤は使う必要がなかった。
 三回忌の二週間ほど前に、お墓の周辺に散布しておいた、その効果がまだ有効のようで、雑草は生えていないし、生えていた奴も、根っ子から腐っているようである。
 頑固に蔓延る雑草の根っ子も、朽ち果てたの残滓を指で摘んで引っ張ると、根っ子の方から小気味よく抜けてくる。

 お墓のコンクリートの端っこ、近くを流れる用水路に面する縁周りに堆積している土ごと、枯れた雑草の残滓を掃き集め、ポリ袋に詰め込む。
 お墓の水入れ、ロウソク立て、線香立ての類は、家に持ち帰って水洗い。

 曲がりなりにも、お墓を洗い清めたので、あとは誰か、お参りに来てくれるのを待つだけである。

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日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

うちの本家の墓がそれこそ、半世紀前に作られた古い墓でしてね、けど、墓地清掃料と言ってお金納める袋送ってくれますよ。
まあ本家の墓は、別の親戚が管理しているんですがー。
うちの寺は納骨の時、土葬の名残りと言って、僧侶先頭に、骨を持った人、遺影を持った人と一列になって行くんですよ、都会にしては珍しいでしょう。
暑さまだ続きますね。

投稿: oki | 2012/08/07 21:18

お墓とか仏壇とか檀家とかって、
思っていたほど歴史がないのですよね。

近頃は、墓参り代行業なんてのもありますから、
誰のために何をしているのだろう、なんて疑問がわいてきます。

僕は、葬式も戒名もいりませんが、
国見さんはいかが?

ペットの葬式、戒名、墓、位牌とかもあって、
僕は、犬猫以下の簡素さになりますけど、
なんとか院なんとか居士なんて犬がいるなら、
逆に戒名なんてありがたくもなんともない訳で。

犬に立派な戒名がつけられる一方、
昭和になってからも差別戒名がつけられている腹立たしさ、
10万ケチると信士、信女に格下げになる分かりやすさ。
日本の人口が半分になるには、
あと百年もかからないと思います。
もうそろそろ冠婚葬祭ビジネスは終わっていいと思います。

投稿: 青梗菜 | 2012/08/07 21:30

okiさん

土葬の風習の名残、興味深いです。
話は違うけど、オショライ、お盆に家族総出でやったものだけど、今は廃れた。
でも、スーパーでは、オショライ用品の売り出しが始まっていて、風習が廃れたのは我が家のことであって、世の中は別のようです。

昨年、市内を走っていて、松川縁でオショライオショライとやっているのを見かけ、懐かしかった。

投稿: やいっち | 2012/08/08 13:58

青梗菜さん

お墓とか仏壇とか、お寺の商売のためでしょうね。
戒名、院号、小生には全く不要です。
葬式も。
これは、生きている方たちの気休めでしょう。
弔うのは、心の中で十分です。
でも、それじゃ、世間が認めない。
不信心だとか、親や先祖を敬う気持ちがない、云々。

かく言う小生、親たちの為には、自身の考えを貫けなくて、葬式業者の言いなり。
儲かったのは業者とお坊さん。
こちらには、遺骨だけ残った。

小生が死ねば、墓を守ってくれる人も廃れる。
自身の為にはお墓は要らないけど、父母や先祖は嘆くのかな。
でも、墓はどんなに保っても、数十年か数百年。
大概は子の世代で忘れられていく。

小生自身は、少なくとも一時期は、創作の中に何かしら自分の居場所、死に場所をと思っていたものです。
それすら至難ですが。

投稿: やいっち | 2012/08/08 14:09

ふむ、しかし、お寺、うちのは立派な本堂があるのですが、寺も維持していくのに大変だろうなと最近になって思うようになりました。
東日本大震災の一周忌の311、東京新聞の一面を飾ったのは、太平洋に向かって読経する僧侶の姿でした。
いろんな思いがある、しかし人は何処かで、人智を超えたものに首を垂れる時が来るように思う。
大震災は一つのきっかけでした。
お金だけではないと思うのです。

投稿: oki | 2012/08/08 21:20

もちろん、お金だけではありませんよね。
だからこそ、対価を払う価値を見出す訳です。
矛盾はしないのですけど、
お気持ちの相場が高額で払いたくありません。

金額の多寡は別として、
死んでから出家しましょうとか、
名前を変えれば生きてる間の悪さがバレないでしょうとか、
立派な名前の人なら立派と思われるでしょうとか、
そんな馬鹿みたいな発想に乗っかる訳にはいかないですよ。
僕の死に関しては。

それで仏教を否定するのかというと話は別。
ご存知のとおり、僕は仏教が好きなのです。
だからこそ、葬式も戒名も要りません。
釈迦は戒名も仏壇も説かなかった。
男も女も身分制度も関係なく、墓も檀家もありません。

生きてる間に、そこそこがんばったぢゃないですか。
実存ってやつです。こんなふうにしか生きられなかったけど、
とりたてて役に立たなかったけど、ちょっとくらいはがんばった自分がいます。
善と悪の間でふらふらしてますが、
戒名で匿名にするほど悪い生き方でもないですよ。


で、国見さん、okiさん、
年に1回でも2回でも、誰かに自分のことを思い出してほしいですか?

わけ知り顔の誰かに、僕のことを総括されるなんて、
どう言われたって反論の機会が絶対にないなんて、
僕には耐えられないのですけど。

投稿: 青梗菜 | 2012/08/09 20:36

僕は独身だから、女性に年に一回思い出してほしいな、Juneさんと言う謎の女性?が、年に一回、誕生日の11月に会うのを習慣として、会えない時はケーキを送って貰ってとやっていたのですが、彼女のお母様とお兄様が、大震災で、亡くなられてねえ、僕も何かしてあげたい。
年に一回、⭕回忌も良いじゃないですか、人に見捨てられ、孤独死が現実にあるから、逆に誰かを思っていたい。

投稿: oki | 2012/08/10 01:58

okiさん
お寺さん 門徒が減りつつある昨今、維持するのは大変になりつつある傾向も見られるとか。
一方、不景気の終焉の見えない現代にあって、相対的にお寺さんのリッチさが際だつ面もあったりする。
お寺の維持も大変でしょうが、一方で自家用車(商用車?)も何台もあり、自宅での普請もリッチだったりする。

小生は浄土真宗なのですが(一応)、ご存知のように、真宗の僧職は、肉食妻帯で、普通の家庭的幸せも享受できる。
親鸞の編み出した教理であり、宗教形態なのだと言えばそれまでですが、小生は全く納得できない、容認しない。
家庭円満な僧職など、クソ食らえ、です。
そんな僧侶には、自らの信心を委ねようとは決して思わない。
有り得ない。

誰よりも不幸たれ、とまでは云わないけど、肉の身を断ち切ることが僧職の最低限の条件です。

お金だけが全てでないのは、それはその通りだけど、その前提条件の段階で、葬式仏教は眼中に有り得ないのです。

投稿: やいっち | 2012/08/10 02:07

青梗菜さん

さすがの意見です。
自らへの的確な(シビアー過ぎる)反省に立った考え。

ほとんど付け足すことも、削る必要も感じない。

上記したように、戒名も院号も葬式も全く不要。
不要というより、必要性をかんじたことはない。

これも上記したように、葬式などの世俗的儀式は生きている人たちのためにあるもの。良心の疼きを最小限にするための装置、それをお坊さんや葬祭業者が協力しているわけです。

小生は、幸か不幸か結婚はしていないし、子供もない。
心をほんの少しでも分かち合った人も只の一人もいない。
なので、小生が染んでも何の不都合も被る人は居ないし、一瞬でも悲しむ人も居ない。
というより、心の関わりを持つことは一切なかったし、これからもないでしょう。

死後、思い出してほしい云々以前に、誰も思い出す人などいない。

思い出すとしたら、薄情な、恩知らずな奴だったなーと、あざ笑われるくらいのもの。

自分をほんの少しでも分かってくれる人が居ようとは、毫も考えられません。
ある意味、生きているうちに、存在の無のようになっている。
月命日などに真面目に勤めるのは、あくまで父母のため、先祖のため、自分は存在する無でいいんです。

投稿: やいっち | 2012/08/10 02:26

okiさん

誰かに思われる…素敵なことですね。
一人でもそのような方がいるのは羨ましい。

まあ、小生には夢の夢。

ただ、生きている間は誰かのことを思っていたい、というのは心底、共感します。
実際、会いたい、お喋りしたい、感謝したい方が何人もいます。
会いたい!

こんな小生も、生きている間は、陰ながらでも、心の限りを尽くしたい!
これは、本音の本音です。

投稿: やいっち | 2012/08/10 02:33

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