ロンドンオリンピックが終わった
ロンドンオリンピックが終わった。
日本人選手の活躍を中心に数多くの試合を見た。
何故か開会式(や閉会式)は、ほとんど…全くと言っていいほど、見なかった。
中学や高校の時の体育大会などでの開会式の冗長さに辟易した、うんざりしたという苦い経験を今も引きずっているからだろうか。
一方、試合の方は、ナデシコジャパンの女子サッカーと女子バレーボールを中心に、可能な限りリアルタイムで、或いは再放送でも、ワイドショー番組などでの特集でも、繰り返し見た。
寄る年波のせいか、感動が涙腺を直撃する。
一人でテレビに見入っていることをいいことに、涙は流れ放題である。
誰はばかることもない。
たださえ、仕事がタイトなのに、テレビに釘付けになり(車中でも!)、家でも時間があっという間に過ぎ去っていき、家事に割く余裕がなくなる。
今回のオリンピックは、日本は金メダルの数こそ目標に遠く及ばなかったものの、銀や銅も併せて38個と過去最高だったとか。
メダルの数もだが、毎日(文字通り連日)メダルを獲得したこと、団体戦での獲得が多かったこと、今までメダルには縁遠い種目でのメダル奪取が成ったことなど、いろいろ特徴があったようだ(国レベルでの、予算面も含めた支援体制の強化などなど)。
メダルには届かなかったものの、新体操を筆頭に、過去最高の結果を残した競技も幾つもあった。
新体操は、ロシアやブルガリアなど、体の出来そのものがハンディがありそうなのに、予選を突破し、入賞を果たしたのは、尊敬に値する。
バレーボールもサッカーも、陸上も水泳も、ほとんどどの競技でも、日本人は体格の上でハンディを背負っている。
柔道やレスリングなど、体重別というシステムだからまだ戦える…なんて書いたら、不謹慎なことだろうか(それでも、柔道は…)。
世界中の人々の目の前で、勝負にこだわり、点数(評価や採点)に一喜一憂する。
衆人環視の中で結果の白黒が定まる。
シャイとか何とかなんて云ってられない。
テレビやカメラ、ビデオの時代。
日本人も感性の上で変化の兆しが見えつつあると言うことか。
これは、何もスポーツに限らないのかもしれない。
内面も含めて遡上に、公開のステージに載せられてしまう時代。
功罪半ばするはずのこの傾向の、真に意味するところは、一体、何なのだろう。
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