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2012/08/04

思春期 魔法の呪縛からの解放

(昼過ぎ、買い物)の帰り、2歳か3歳の子供を抱いている若いお母さんを見かけた。
 何処とな く変な印象を抱いて目に付いたようだ。
 そのお母さんは、子供を斜めにして、 しかも、子供のお 腹に手をあてがっていた。ちょっと見かけない恰好である。 子供は、気のせいか、ちょっと苦しげな表情をしている。あまり長くお腹を圧迫 していた ら、そのうち、呼吸困難になるか、あるいは内臓が痙攣を起こすに違いな い。
  尤も、その前に子供のことだから、苦しくて泣き出すだろうが。

 茶髪の奥さんは、もう片方の手に籠を下げていて、子供の姿勢を直す余裕がない。 急いでも いるらしく、構っている場合じゃないという、やや切迫した様子も見受け られる。
 子供は、一体、その時、何を感じているのだろう。子供の視線 から見たら お母さんも含め、この世界というのは、どのように見えるのだろう、と、 ふと思った。 ともかく訳も分からずに奇妙な恰好で抱かれて苦しいが、でも、これが与えられ た状況なん だし、我慢できるまではとにかくこのままじっとしているよりない…

 物心付くか付かないかの子供には、大人は遥かに見上げる存在である。親も小父さんや小母さんも、家 に来るお客さんも、店 で街で見かける大人達も、みんな巨人だ。
 子供の視線は、普段、当然のごとく、水平に向かっている。等身大の世界を見る。 仮に目の 高さが1メートルだとしたら、その1メートルの地平が、彼らにとっての 与えられた世界であ ろう。
 そこに大人たちが介入してくる。まるで2階からいきなり、低い世界である 彼らの未熟 な、だからこそ豊かな世界に飛び込んでくるのである。

 神の手とまでは いかなくても、彼らなりの物語的継続性など頓着しない大人の都合が、子供には皺 だらけの巨大な、クレーンみたい な手という形で突然、姿を現すのだ。
 大人に不意に抱きかかえられたり、まして肩に担がれたりしたら、それは一気に 世界を遥か遠くまで展望するかのような、不思議、魔法の世界にいるような感を抱くに違い ない。
 身長が10セン チと言わず数センチでも違うと、世界の見え方が違ってくる ことは、履物の底の高さが普段と 違った厚いものを履くと、実感できる。 それは視線の高さが違うと同時に、視線の向きが変わるからでもあろう。同じも のを見るに しても、その対象の見える角度や相貌が若干ずつであれ、違ってしまう。 そのことの齎す心的 効果は、新鮮なものがあるはずだ。

 それが、肩に担がれることで、いきなり2メートルほどの高さに舞い上がるのだ。 子供の目 の前には、無数の奇妙な物体や事象が鎮座したり垣間見えたりしている。 あるいは親の(大人 たちの)声も、遥か頭上から、天からの神の戒めの声、子供の 生活世界の論理にはまるで脈絡 のない、命令的指示として齎される。 むしろ、親(大人)の言葉や仕草も、家の柱も天井も壁も、立ち木も、木々の葉 っぱも、あ るいは天の青い空も白い雲も、すべて、鮮やか過ぎる、新奇なる感動の 種なのである。 そう、驚きの連続なのだ。
 車という物体がある。なんだか知らないが、それに乗せられると、居ながらにし て、親に肩を抱かれているだけで、世界をすっ飛ん でいく。窓の外の風景 が流れていく。道端の、普段は自分を追い越すか、自分を見 下ろし睥睨していたはずの無数の 人々を、あっという間に追いつき追い越し、後に 置き去りにしていく。

 電子レンジに入れて摘みを適当に回しておけば、温かな食べものがチンと言って 出現する。 壁高くに吊られたエアコンに向けて、小さな箱(リモコン)のボタンを 押せば、部屋の中が暖 かくなったり冷たくなったりする。
 あるいはテレビに向ければ、勝手に画像が流れ出し、画像は、自分が見下ろす中 で、あっち へ動き、こっちへ動く。気に食わなければ、ボタンをピッピッと切り替 えれば宜しい。それだ けで、画像の顔ぶれや風景が一気に変わる。
 世界は小さな王様である彼の手中にあるのだ。一切は、彼の足下にあるのだ。 しかも、彼ら子供たちにとって、飛行機に乗って世界を飛ぶことも日常茶飯事になってい る。昔の子供以上に昔の王様以上に、王様であり神様であり全てである。

 なんといっても食 べるための苦労がないのだ。食べものというのは、何か訳の分 からない紙切れかカードと交換 される記号なのだ。人間の汗や労苦などとは一切、 無縁の、ブラックボックスから出てくるメ ニュー、その気になれば、ちょっと喚け ば、否、何も言わなくても黙って待っていれば現れて くる日々の当為なのである。 そこにある、あって当たり前の、自分が我が侭放題に選択でき る、ただの餌なので ある。
 世界は彼の(彼女の)思いの下にある。世界は彼(彼女)の魔法の世界の中にあ る。まさに、魔術とは「超自然的手段を用いて、善悪いずれ であれ自分が望むよう にこの世の現象を操作し変えようとするもの」だとしたら、 現代という飽食の時代にある子供 たちにとって、魔法は使えて当たり前の世界にな っているのだ。
 しかも、幾つになっても魔法は解けない。食べ物を得るために汗水を流す必要が あるという 現実から遠ざけられいる以上は、魔法が解けるはずもないのだ。子供の 無邪気な、そして残酷 な心をずっと抱きつづけることができる、それが現代なので ある。 つまりは、思春期になっても夢から覚めることがないのだ。

 が、人間(自分)にとって一番、身近である現実、つまり自分の体は、現実に目 覚めよと命 じてくる。その前に、ほんの少しでも肉体の枷を実感できていればいい のに、様々な家事や労 働などで肉体を通しての現実との接触が、つまりは準備運動 ができていればいいのに、それが 先延ばしにされたままに、ある日突然、思春期を 迎え、現実と格闘することになるのだ。


「 子供と魔法と世界(2) 」(02/03/13)より)

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