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2012/07/10

土に還れ!

          (前略)

水を呉れだと。水はたっぷり注いでやったじゃないか。何も涙の川と洒落てい るわけじゃない。地上世界を殲滅した光は、大地の水を干上がらせ、天へと巻き 上げた。 あの黒い雲が見えないのか。今にも洩れ零れそうなほど、今にも溢れそうなほ ど、水を満々と湛えているじゃないか。 あれこそが、水の塊だ。渇望の的だ。さんざん今まで湯水の如く垂れ流してお きながら、この期に及んで何を我が儘を吐くのだい。

湯水の如く愛情を撒き散らしてきたじゃないか。愛情を降り注ぎあう 機会は、嫌って言うほど与えてやってきたじゃないか。なのに、今頃になって。
魂が剥き出しだ。赤子の魂だ。赤裸の肉の心だ。裸の肉となった心どもが地上 世界をうろつき回っている。六道の闇夜の川を渡ろうとしている。火の川だとい うのに。水を求めて。

          (中略)

浮腫する肉体。血肉の蒸発する風船玉。まるで癇癪 玉だ。ああ、涙が出るほど滑稽な光景だ。ゴロゴロ転 がっている。 衣服さえも天に召し上げられたのだ、髪など熱風と 共に蒸発するのは当然じゃないか。髪は天へと揮発 し、あるいは肉の底へと巻き込まれ縮こまっていっ た。天が地上世界をのし歩き睥睨して回る時、髪の毛 など屁にもならぬ。 私は哀願する若者を見た。懇願する娘を見た。平然 と。お前達だって地を這いまわる蟻の命を思いやった ことがあったか。さんざん、踏みつけにしておいて、 今度、自分が踏みつけにされると怒る。我が儘な奴等だ。 呪詛の声が響き渡る。呻く声が、髪の蒸散するように空しく白い闇に溶けてい く。 天はお前達のことなど、これっぽっちも相手にしていない。悪魔の玉手箱を落 として成り行きを見守るやつ等ほどにも見てはいない。今頃は快哉の声をあげて いるに違いない。銀色の祝盃を傾けているに決まっている。

          (中略)

閃光の炸裂した世界。全てを投げ打っている…に違いないと思ったのに、生活 は続く。何もかもがうんざりのはずなのに、明日の為になのか、ただの惰性なの か、それとも無縁仏となって処置に困るのを恐れているだけなのか、横たわって 息も絶え絶えの魂の骸に番号を打っている。 その意志たるや!

          (中略)

水を汲め。水を嘗めろ。地の底に湧く水を吸い上げるんだ。ほら、あそこにも 水に飢えている奴がいるじゃないか。ああ、つい、天にある我、地上世界の不在 の私が口を挟んでしまった。私も堪え性がないのだ。お前達と同罪だ。 糞塗れの肉体。水たまりはなくとも糞尿の池は数知れない。それだって地とい う名の天が濾過してくれるというもの。地に染み込んだ糞尿を土壌に変え、尿を 水に変え…。そう、汚物も世界を循環していく。この世に輪廻の定めを逃れられ るものなど、寸毫ほどもありはしないのだ。

         (中略)

人は闇から来たって闇に還っていく。この世に生きてあるものの道筋は、誰に も平等なのである。ただ、誰もが闇の中でこっそりと末期を迎えるから、目を背 けて居られるだけ。来る時が来たら、肉は殺げ、肉は腐り、肉は焼け、心は焦が れ、心は涸れ、心は妬ける。 心の肉に蛆が湧き、命が自然発生する。そう、えげつない命の営みが己が肉の うちで繰り広げられる。悪魔の玉手箱は地上世界の枠も囲いも塀も壁も覆いも仕 来りも取っ払ってしまった。人が営々と築き上げてきた世間体という体裁をも あっさりと吹き飛ばしてしまった。

薄闇の奥でこっそりと処理されていた、偽善をも奪い去ってしまった。人の肉 は地の底にあって燐と成り果てることを暴露してしまった。人の尊厳など、塵ほ どにも意味を持たなくさせてしまった。 夜は人魂が燃えていると云う。違う、夜も昼も人魂は燃えているのだ。お前達 の目は節穴だからそれが見えないだけなのだ。今も燃えているぞ。見えないの か!

遠い昔、広島の地は森の地だった。それを剥げさせ て、田となし、畑となし、町となした。今、灰燼に 帰って、その遥か遠い昔をお前達は思い出すか。思い 出すまい。そんなものなのだ。 だから、天もお前達を見はしない。塵ほども気にか けない。風が吹くに任せるだけ。鳶(とび)の舞うに 任せるだけなのだ。

押し潰された蛙を見よ。かのごとく生き、死ぬのが いい。この世を這いまわって、力尽きて死ぬがいいの だ。他に何をすることがある?

(「日蔭ノナクナツタ広島ノ上空ヲトビガ舞ツテヰル」より)

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