ランナーズハイ、ライダーズハイ
三回忌の準備作業で、オフの日は多忙である。
肝心の仕事のほうは暇だが…
過日、お客さんとの雑談の中で、走ること、についての話題に花が咲いた。
お客さんは短距離、小生は短距離も好きだけど、長距離のほうが好きという違いはあったけど。
せっかくなので、数年前書いた、関連しないでもない雑文を載せておく。
(以下、「 帰省日記拾遺(2)」より)
(前略)歩きであればポツポツという小降りの雨でも、百キロ以上での走行では雨粒がバイクのヘルメットのシールド(風防)をも、叩き着けるような状態にな る。
バイクを駆っていると、低速だとエンジン音が大きかっ たりするが、高速走行だと、音は風を切る音だけになる。 それが、雨のツーリングとなると、風防にぶち当たって砕 け散る雨の音が耳に感じられるだけになる。
横風などは、時折、バイクを揺らしたりするが、意志を しっかり前向きに保つことで(勿論、服装も風に左右され ない、体にフィットしたものである必要がある。そうでな く、バタバタしてしまう衣服だと、風に煽られ、ヨット状 態になってしまう)、気紛れな風に対抗する。
エンジンの音は風と雨に掻き消され、シートから、さら にはグリップ(ハンドル)を握る手先や指先から細かな、 決して止むことのない振動となって体に伝わる。音は、というよりバイクは振動だと終始、実感するのだ。
さて、雨に祟られたりすると、煩(うるさ)いだけなの か。 そんなことはないのである。
ランナーズハイという言葉、それ とも状態があるという。「マラソン やジョギングなどをしていて最初は しんどくて苦しいが、 走っているう ちにだんだんと気分が良くなってくる現象」だという。
そのメカニズムはともかく、小生、今でこそ走るのは苦手で 、歩くのも面倒にさえなりつつあるが、これでも、小生、 一昔前までは走るのが大好きだったのだ。
特に長距離走が 得手だった。青梅マラソンで30キロを完走したし、大学生 の時は、大晦日にぶっつけ本番で20キロを走り、やや上位 に入賞し、商品としてお酒を貰ったこともある。 なのに、ああ、それなのに、今じゃ、三歩歩くのが散歩 の極意だと開き直る始末である。むしろ、不始末というべ きか。
ランナーズハイを小生なりに味わったことがあるが、ライダーズハイもある。これも、数百キロの道のりを淡々と 走る経験をしないと感じることは、まずないだろう。
小生 、何十回(あるいはそれ以上)経験したことか。 雨に祟られる高速道路での長距離ランであっても、次第 に悟りの境地ではないが、無念無想に近いような感覚、そ れとも、無感覚の感覚(論理矛盾風な表現で申し訳ない) を味わうことがあるのだ。
冷たい雨や雪の中の走行だと、寒くて無念夢想どころか 、残念無念に終始するに過ぎないが、あの日のように、歩 く人には傘を差すのも躊躇うような細かい雨だと、寒くは あっても、耐え難いほどではなく、ライダーズハイの状態 に移り行くには最適だったのである(後 から振り返って思えばの話である。雨を覚悟する時は、ああ、雨か、雨に濡れるのは嫌だなと、憂鬱になるばかりで ある)。
高速道路の両脇には、特に山間の道の 場合が多いのだが、緑の山々が延々と続 いてくれる。晴れの日は、それはそれで 緑色の天然の屏風は素晴らしい。
が、雨に降られてみると、若葉であるにも関わらず、 これまた落 ち着き払った、 深い緑の海の世 界を現出してくれるのである。
緑の海を分け入る。地上世界にあることを忘れ、青葉若 葉の自在に多彩に変幻する緑の妙味をとことん味合わせて くれるのだ。
悲しいかな、小生にはライダーズハイも、緑の海の見事 さも描き切る技量はない。でも、いつかは風車に挑むドン ・キホーテの如く、挑戦してみたいものである。
(May 09 , 2005)
ライダーズハイ(モドキ)を描いた短編「 誰がために走るのか 」 (02/10/03) を読んでくれると嬉しい。
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