« 今年も蛍袋の花々が | トップページ | 梅の実がタップリと »

2012/06/17

神の目を憶する

 神には動物だけが彼の関心の対象であるはずがない。この地上の 全ての存在が神には平等に眼差しの注ぐべき、愛すべき存 在者たちではないか。

Wols

← ヴォルス『Blue Phantom』 (「 三つ子の魂を持つ画家」参照))

 だとすると、 動物どころか、植物だって神の目からは 慈愛の対象でなくていいわけがない。植物は生きてい ないのか。生きている。 健気に、あるいはしたたかに生きている。 神は地上のありとあらゆる命の泉に熱い眼差しを降り注いでいる、そうに 違いないのだ。
  人が死ねば土に還る。土と風と少々の埃に成り果てる。

 植物だってそうだ。 腐って土に還る こともあろうし、動物に喰われて消化され動物の血肉になったり、あるいは排泄され土に戻る。一旦は血肉になった植物の構成要素も、当座の役割を果たしたなら、遅かれ早かれ廃棄さ れるか、あるいは動物の連 鎖の何処かの網に引っ掛かるだけのこと。

 人間にしても、同じことだ。やっぱり 火にくべられて、夢と風と煙に化す。そうでなければ、灰となって土中の微 生物の恰好の餌になるだけのことだ。
 神の慈愛に満ちた眼差しはとりあえず今、生きている存在者たちに注がれるだけでなく、土や埃や壁や海の水や青い空に浮かぶ雲や、 浜辺の砂やコンクリートやアスファルトやプラスチックやタール等々に、均 しく注がれているはずなのである。

 神の目から見たら今、たまたま生きている生物だけが特別な存在である理 由など、全くない のだ。そんなものは人間の勝手な思い込みで、自分たちが 特権を享受しているという思い込み、神の特別な関 心が魂の底まで達しているに違いないの だと自惚れているに過ぎない。
 塵芥である私は、空中を浮遊する塵や埃と同一の価値をもつ。価値とは 神からの恵みだ。 その恵みは地上だろうが、あるいは宇宙空間だろうが、全 く等距離の彼方にある。それとも、全く、等距離のすぐそこにある。

 宇宙の永遠の沈黙。それはつまりは、神の慈愛に満ちた無関心の裏返しな のである。神の目 からは、この私も彼も、この身体を構成する数十兆の細胞 群も、あるいはバッサリと断ち切ら れた髪も爪も、拭い去られたフケや脂も、 排泄され流された汚泥の中の死にきれない細胞たちも、卵子に辿り着けなかった精子も、精子を待ちきれずに無為に流された卵子も、すべてが宇宙線のように冷たい眼差しの先に厳然とあるに違いない。

 この私とは塵や埃と同然の存在。それは卑下すべきことなのか。 そうではないのだ。むしろ、この地上の一切、それどころか宇宙にあると ころの全て、あるいは想像の雲の上を漂う想 念の丸ごとが、神の恵みなので あり、無であると同時に全であることを意味しているのだ。
 私は風に吹き消された蝋燭の焔。生きる重圧に押し潰された心のゆがみ。 この世に芽吹くこ との叶わなかった命。ひずんでしまった心。蹂躙されて土 に顔を埋めて血の涙を流す命の欠 片。放射線に刺し貫かれた染色体。そう、そうした一切さえもが神の眼差しの向こうに鮮烈に蠢いている。
 蛆や虱の犇く肥溜めの中に漂う悲しみと醜さ。その悲しみも醜ささえも、 分け隔ての無い神 には美しいのだろう。

 私は融け去っていく。内側から崩壊していく。崩れ去って原形を忘れ、こ の宇宙の肺に浸潤 していく。私は偏在するのだ。遠い時の彼方の孔子やキリストの吸い、吐いた息の分子を、今、生きて空気を吸うごとに必ず幾許かを 吸い込むように、私はどこにも存在するようになる。私の孤独は、宇宙に満 遍なく分かち与えられる。宇宙の素粒子の一つ一つに悲しみの傷が 刻まれる。

 私は死ぬことはないのだ。仮に死んでも、それは宇宙に偏在するた めの相転移という ささやかなエピソードに過ぎないのだ。
 ふと、そんなことに思い至った時、私を包んで今にも窒息させようとした 頑固な殻が、カサブタの剥がれ落ちるように罅割れ、バラバラと落ち、新鮮な空気が私の肺に、肺胞に吸入されるのを感じた。
 私は居眠りから目覚めた。
 春の夜の夢、ちっぽけな胡蝶の夢はこうして散った。


(短編「夢を憶する」(03/02/09)より)

|

« 今年も蛍袋の花々が | トップページ | 梅の実がタップリと »

創作(オレもの)」カテゴリの記事

コメント

神がいるかはともかくとして、この世に存在するものは、何らかの役に立っているのかな、と思う反面、プラトンのイデア論からすれば、ふけが存在する以上、ふけのイデアがあることになる、ちょっとおかしいとも思う。
人間にもどうしようもないのがいる。刑務所入って出たらすぐ再犯するような輩。
なかなかむずかしい問題がありますね。
神がいるなら、と西洋では、神義論の歴史があるけど、これもうまくいかない。
宗教哲学の量義治は十字架のイエスが、神に見棄てられつつ、我が神、我が神と叫んだことから、無信仰の信仰というのを唱えていますが、さてうまくいっているか?

投稿: oki | 2012/06/17 21:29

okiさん

神学論議など小生の手の及ばざること。
神の存在を信じているわけでもないし。
ただ、センス・オブ・ワンダーの念は大事にしてきたし、何がどうなっているかも驚異だけど、そもそも何かがあるってこと自体が驚異。
在るは、デカルト的な論議の果てなのだとして、ですが。

まあ、そうはいっても、所詮は人間ですから、人間の、そして自分というの野郎の偏見や身勝手から逃れられるはずもない。
生き物を大切に、と云いつつ。生き物の種類に選り好みがある。
それどころか、イスラム教やユダヤ教、キリスト教には、宗派対立があって、人の命より教義のほうが大切だったりする。
人を殺しても守る教義など、クソっ食らえ、ですがね。

投稿: やいっち | 2012/06/18 19:03

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/52847/54980808

この記事へのトラックバック一覧です: 神の目を憶する:

« 今年も蛍袋の花々が | トップページ | 梅の実がタップリと »