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2012/06/06

世はイカロスの墜落のある風景

 ダニエル・デネット著の『ダーウィンの危険な思想』のほぼ末尾に、彼が大好きだというオーデンの詩が引用 されてい る。
 それは、かのブリューゲルの絵画「イカロスの失墜」がオーデンをし て鼓舞せしめ書かせ た詩なのである。
「イカロスの失墜」は、「前景の丘の辺りに一人の農夫と一頭の馬が、そしてはる か前景に は、立派な帆船が一隻と、ほとんど見分けのつかない二本の白い脚が小さ なしぶきをあげて海 中に消えていくのが描かれている」(p.700 以下、特に断らな い限り上掲書の引用頁を示す):

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← 伝ブリューゲル『 イカロスの失墜 』 (絵の詳細については、「 ピーテル・ブリューゲル-イカロスの墜落のある風景-(画像・壁紙) 」を参照のこと)

「イカロスの失墜」という話は、俗っぽく解釈すると、真理へのあくなき 追求という イメージ、神(権威・権力)への無謀な挑戦、同時に、にもかかわらず その<挑戦者>を取り 巻く周囲のあまりの無関心さ・沈黙という際立った対比とい う意味合いを示している。


 デネットが好きだという、オーデンの詩を以下に引用する(p.700-1):
 

昔の巨匠たちは、受難について決して間違わなかった、
その人間的位置を、彼らは何とよく理解していたことか、
ほかの連中が食べたり窓を開けたり、ただのろのろ歩いている間に、
どんなふうに受難が起こるかを知っていた、
老人たちがうやうやしく熱心に、奇跡的な誕生を待ち構えているとき、
それをとくには望まぬ子供らが常にいて、
森の端の池ですべっているに違いない次第をも、
彼らはよく理解していたのだ。
彼らはまた、決して忘れなかった、
恐ろしい殉教者の道でさえ、とにかく片隅の、
取り散らかしたところを行かねばならぬことを、
犬が犬の暮らしを続け、
拷問者の馬がその無実な背中を木にこすりつけているところを。

たとえば、ブリューゲルの「イカロス」だ。
何もかもまったくのんびりして、彼の災難を顧みようともせぬ、
農夫は、ざんぶという墜落の音や絶望の叫びを聞いただろうが、
重大な失敗だとは感じなかった。
太陽も相変わらず、碧の海に消える白い脚を照らしていた。
ぜいたくで優美な船も、驚くべきものを見たのに、
空から落ちる少年を見たに違いないのに、
行くところがあって、静かに航海を続けたのだ。
     (沢崎順之助訳『オーデン詩集』思潮社)


 この壮大で淡々とした日常。
 何処かで若者が訳の分からぬ情熱に浮かされて無謀 なる自棄的 な行為に走る。それがために自らを、あるいは他人を傷つけ、時には死 に至らしめる。それは 路上でかもしれないし、どこかのアパートの一室かもしれな いし、学校の体育館の裏なのかも しれない。衆人環視のもとでかもしれないし、誰 も目撃者のいない闇の中でのことかもしれな いし、もしかしたら誰か一部始終を見 ていたのに、見てみぬふりをされたために誰が犯行を 行ったのか真実は闇に葬り去 られたのかもしれない。
 マンションの隣りの部屋で今にも首を括ろうとしている誰かがいるのかもしれな い。一人き りの部屋。それこそ、神さま以外の誰も目撃者はいない。
 が、神はあく まで沈黙を守り通す。
 もしかしたら、神の目からしたら平凡すぎる光景に過ぎない がゆえに、つい欠伸をして見逃し てしまっただけのことかもしれない。いずれにし ても、初めから最後まで見守るだけなのであ る。
 むしろ、部屋の片隅に密かに巣食 っている蜘蛛くらいは、ほんの一瞬、その誰かの苦悶の 濁った末期の叫びを音波の 響きとして感じたかもしれないが、その奴にしたって、すぐに再び ダニを追う仕事 に没頭したのに違いない。

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→ ダニエル・デネット著『ダーウィンの危険な思想』( 山 口 泰司【監訳】 石川 幹人 大崎 博 久保田 俊彦 斎藤 孝【訳】 青土社 )

 闇の世界へある日、生れ落ちて、物心が付いて、愚かな心根ゆえに、狭い根性の ゆえに賢明 なる者には短慮とした思えない行為をなす。人生をこうだと決め付けて、 勝手に躍り上がり、 勝手に興奮し、勝手に闇に向かって突っ走り、勝手に他人をあ るいは自分を追い詰め、早すぎ る決着をつけてしまう。
 その一方での大多数の晴れがましいリクルートスーツの群れ。
 あるいは街の何処かで事故が起きて一瞬にして命が奪われ、あるいは病室の壁に 向かって病 の重さに耐えかねている。
 その傍らで商店街は昨日に変わらぬ姿を今日を繰り広げる。
 その脇には、これが世間だというしかない社会が、金属的なまでの悲鳴には無頓 着に日々の 営みを続ける。店の売上げを嘆く人、化粧のノリの悪さを愚痴る人、あ るいは道端に咲く花を 愛でる人、空の青さに心を奪われている人…。
 世界のあまりの広さと変幻の豊かさ。何が悪いとかいいとかなど、論外の淡々と 続いてく世 界。浮かんでは消えていく泡沫の命。須臾に結んでは解れていく形。 命を預かる生物たちの多様さはどうだろう。眩暈のするほどではないか。
 ライプ ニッツが、 現実の世界を最善なものと見なしたのは、何故なのだろうか。 恐らくは、世界の多様性を、この上ない多様性を可能にしているからこそ、にも かかわらず 世界が存立しえているからこそ、この世を至上の世界と考えたのだろう。
 何故なのか分からな いが、<モノ>がこの世にあり、その<モノ>たちは、個々バ ラバラに粒子状に散在し終わる のではなく、水素と酸素がガッチリ結びついて水と なり、炭素がその鎖を無数に連鎖させてや がては命の原初の土壌となる、まさに彼 には予定調和としか考えられない神秘な仕組みを直感 したのだろう。
  創発し自己組織化し、自己増殖する命の、あるいは分子の可能性の膨大さ。


(「 デネット著『ダーウィンの危険な思想』、 あるいは美女と野獣と叡智と 」( 02/04/13 )より抜粋)

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