買ってきたのはヤシですよね
今日またもや、観葉植物を入手した。
得たのは、ヤシ。
ヤシの実が生るのか、大きくなるのか、確かめもせず。
→ 「ヤシ」 帰宅して、この植物の名前をど忘れ。店に名前を訊こうと電話した。口を突いて出そうになったのは、「あの、さっきヤシ、買ってきた者ですけど、名前…」 小生、ハッと気付いて、「さっき買ってきたの、ヤシですよね」と言い換えた。
一昨日のモンステラに続き、玄関ホール用に観葉植物を買ったのは、しかも、東京在住時代とは違って、一歩外に出れば、松や杉や棕櫚やモミヂ、サツキ、梅、南天、山茶花、ミカン、モミ、榊……と、下手すると藪のような惨状の庭が家を囲繞しているというのに、屋上屋を重ねるまねをしたのは何故か。
それは、昨日の日記にも書いたように、月に二度、父母の月命日があり、そのたび、仏花のみならず玄関ホールの花まで活け変えていた、その費用が負担になってきたからである。
← 内庭(築山)。蔵に面する側。
活けても誰も見てくれないし……
観葉植物2個なら、今後発生するはずの数ヶ月分の切り花代金で元が取れる。
それに、観葉植物の無口で無表情な、質実な存在感が好きだ……
しかし、観葉植物に切り替えたのは、もっと別の理由がある。
それは小生、生け花がきらいだからなのだ。
花々は、それが大地であれ、鉢植えであれ、土と一緒でこそ花なのだ、という思いがある。
無論、花に限らず、草であれ、樹木であれ、同じことである。
生け花というのは、どんな綺麗な活け方であろうと、それは切り花を活けたもののこと、あるいはそういったアート(?)のようである。
さらには、「 華道」となると、「 植物のみや、植物を主にその他様々な材料を組 み合わせて構成し、鑑賞する芸術である」とか。
→ 内庭。築山と縁側の間。ここには除草剤を散布しているのだが、何故か、苔むす面の真ん中に木が生えてきてしまった。
確かに、植物は、「 切り落としても適切な処置すればあ る程度生命を維持することができる」。
しかし、小生にはあまりに不自然な営為に思えてならない。
人間で云えば、生命維持装置で無理やり延命させられているような。
植物には、当人もだが、周りにも、無体な仕打ちに抗議の声を揚げる可能性もない。
小生は、庭木でさえ、不自然な営為、人間の勝手な思い入れ空間の創出に思えてならない。
鉢植えだと、もっと窮屈なような。
云うまでもないが、植物は小生の懸念など、一切頓着せず、生き延びるため、あらゆる方策を尽くす。
植物の側の視点に立てば、鉢植えどころか、生け花でさえ、彼らなりのサバイバルの手段の一つに過ぎないやもしれない。
まあ、そんな理屈はともかく、これからは玄関ホールを通るたび、観葉植物とすれ違えるという楽しみができた、そのことが何より嬉しい。
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