作家のさが?
家事の合間をみては、 ワインでも嗜むように(?)本を読む。
自宅では、昨日の日記にも書いたように、G・ガルシア=マルケス/著『生き て、語り伝える』(旦敬介/訳 新潮 社)である。
G・ガルシア=マルケスは、小生には 畏敬の対象である作家だからか、とにかく再読ながら、彼の語りを楽しんでいる。
ところで、前回、読んだときにも違和感を覚えたが、今日もあるくだりで、おやっ、という感が、一瞬湧き、長く尾を引きながら消えていった…
まあ、細波程度だけれど。
それは彼が歌が上手だと云うことである。
別にプロ級と言うわけでもないようだが。
小生の勝手な思い込みの中では、作家たるもの、生きることに不器用である、意図してではなく、つい、あちこちで壁にぶつかってしまう、そんな存在であることが、ある種の運命的な条件なのである。
女(異性)が好き、酒が好き、踊ることが好き、喋ることが好き、怠けることが好き、お金が好き、贅沢が好き、名誉へのこだわり、まあ、世俗的な欲望に作家だってまみれていて悪い訳じゃない。
むしろ、書く上での豊かな土壌・滋養にもなろうというもの。
但し、得意であっては作家には成れない、だったらその分野の専門家にでもなればいいわけである。
G・ガルシア=マルケスは、歌うことが好き(ここまではいい)、人前で歌うのも好き(これも良し悪しの問題じゃない)、それ以上に、歌うことで鬱憤などを発散できる、と言う。
踊ることに関しては、コロンビア人(南米人)にしては苦手だと書いている。
歌うことに熱中し、歌うことで喜びを爆発させ、憂さを晴らし得るなら、作家などは目指さないのではないか。
歌に熱中しつつも、ギリギリのところで、プロの歌手の歌唱力に陶酔するしかない、一抹の淋しさ。
他の手段ではどうしようもない、書かないでは居られないからこそ、そういう性(さが)だからこそ、作家となったのではないか。
まあ、余計なことを云わずとも、 G・ガルシア=マルケスは押しも押されもされない作家なのだから、別にどうってことはないのだが。
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