裸足のダンス
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生け花は好きじゃない。
いかに美しく仕立てられてはいようとも。
だから、敢えて観葉植物を二種類までも入手した。
← 画像は以下、このホタルブクロなど、いずれも小生が世話していないのに、勝手に(?)我が家の庭に育ってくれている、植物群像。
かく云いながら、一方では、仏花としては、生け花じゃないけれど、菊などを過去の通例通り、買ってきたし、仏壇に供えた……
矛盾している?
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今日またもや、観葉植物を入手した。
得たのは、ヤシ。
ヤシの実が生るのか、大きくなるのか、確かめもせず。
→ 「ヤシ」 帰宅して、この植物の名前をど忘れ。店に名前を訊こうと電話した。口を突いて出そうになったのは、「あの、さっきヤシ、買ってきた者ですけど、名前…」 小生、ハッと気付いて、「さっき買ってきたの、ヤシですよね」と言い換えた。
一昨日のモンステラに続き、玄関ホール用に観葉植物を買ったのは、しかも、東京在住時代とは違って、一歩外に出れば、松や杉や棕櫚やモミヂ、サツキ、梅、南天、山茶花、ミカン、モミ、榊……と、下手すると藪のような惨状の庭が家を囲繞しているというのに、屋上屋を重ねるまねをしたのは何故か。
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来月の三回忌に向け、準備を少しずつ進めている。
やるべきこと、できたらいいなということは、多々ある。
でも、できることは(予算の都合もあるし)限られてくる。
← 今年は梅の実が豊作で、例年は一瓶がやっとなのに、二瓶も。濁っているほうは、93年に台湾(台北)への社員旅行の際に土産に買ってきた蜂蜜を使ったから。さすがに蜜が澱のように沈殿していた。ようやく、蜂蜜を使うことができた。
「モンステラ」なる観葉植物を買った。
衝動買いに近い。
まあ、玄関ホールのちょっとしたアクセント、という意味合いはなくはないが。
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家事の合間をみては、 ワインでも嗜むように(?)本を読む。
自宅では、昨日の日記にも書いたように、G・ガルシア=マルケス/著『生き て、語り伝える』(旦敬介/訳 新潮 社)である。
G・ガルシア=マルケスは、小生には 畏敬の対象である作家だからか、とにかく再読ながら、彼の語りを楽しんでいる。
ところで、前回、読んだときにも違和感を覚えたが、今日もあるくだりで、おやっ、という感が、一瞬湧き、長く尾を引きながら消えていった…
まあ、細波程度だけれど。
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自宅では、G・ガルシア=マルケス/著の『生き て、語り伝える』(旦敬介/訳 新潮 社)を、例によって牛歩だが、再読と言うこともあるのか、じっくりゆっくり味読している。
題名から察せられるように、自伝。
← G・ガルシア=マルケス/著『生き て、語り伝える』(旦敬介/訳 新潮 社)
とにかく語り口が、うまい。
と言うより、隔日に、ちびりちびりと読むのだが、ちょっとでも読み出すと、彼の世界に引き込まれてしまう。
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真っ暗闇の中、鮮烈な光の一閃。
目を射抜き、心を刺し貫いて。
原初、天に光があり、そこにいるオレを導いた。
違う! 導いたのではなく、曝けだし、引き裂いたのだ。
肉が切り裂かれる。
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神には動物だけが彼の関心の対象であるはずがない。この地上の 全ての存在が神には平等に眼差しの注ぐべき、愛すべき存 在者たちではないか。
← ヴォルス『Blue Phantom』 (「 三つ子の魂を持つ画家」参照))
だとすると、 動物どころか、植物だって神の目からは 慈愛の対象でなくていいわけがない。植物は生きてい ないのか。生きている。 健気に、あるいはしたたかに生きている。 神は地上のありとあらゆる命の泉に熱い眼差しを降り注いでいる、そうに 違いないのだ。
人が死ねば土に還る。土と風と少々の埃に成り果てる。
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庭先に雑草かどうか定かではない草が生えてきて、毟るべきか迷っていた。
まあ、もう少し様子を見ようと放置。風情があるので、これはこれでいい植物だな… と思ったら、つい先日、鈴蘭の花を大きくしたような花が不意に咲いていた。
→ 「蛍袋(ホタルブクロ)」
ああ、これは、昨年も咲いていた蛍袋じゃないか! 慌てて毟らなくてよかったよ。
昨夜来の雨の中、今朝、家の周りを歩いてみたら、蛍袋の花があちこちに。
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ニック・レーン著の『ミトコンドリアが進化を決めた POWER, SEX, SUICIDE』を再読した。
3年前に図書館から借り出して既にし一読しているのだが、敢えて購入して再読してみた。
← ニック・レーン著『ミトコンドリアが進化を決めた POWER, SEX, SUICIDE』(訳者斉藤隆央 解説田中雅嗣 みすず書房)
哲学嗜好の小生が読んでも、また生物学の専門家が読んでも知的刺激溢れる、魅力的な本だろう。
翻訳が出たのは3年前、原書は05年らしいが、今読んでも十分、(専門家でも)一読の労を取る値打ちがある。
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もう三十年も昔のこと、バイクの免許を取った夏、小生は中古の故障しているバイクを早速入手し、無謀にも修理もせずに駆って、大学のある仙台から東京を経由して富山への往復旅行を敢行し たことがある。
これは正に敢行だった。バイクのチェーンがチェーンカバーに擦れていて、走っているとカラカラカラと不気味な音を立てているのだ。
それでも、中古ではあれ、 やっと手に入れたバイク、やっと取った免許なのだ。何が何でも仙台から富山までバイクで往復したかったのだ。
道も何も分からないで走る。ガス欠。故障。迷い道。 箱根の山が我がバイクでは登れなくて、ローギアにしても、ハーハーゼーゼー言って走る始末。明るいうちに昇り始めたのに、途中、暮れ初め、深い霧に覆われ、どう なることかと不安の念が昂じるばかり。
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昨日、簡単な感想を寄せた 石田 瑞麿【著】の『 女犯 聖の性』で、興味深い、でもどうでもいいのかもしれない話題に遭遇した。
→ カジュラーホー寺院群のある寺院に刻まれている交合像。戒律という発想自体、窮屈なのかもしれない。
本書の末尾に、「僧の隠語」という項目がわざわざ設けてあるのだ。
本筋とは無縁(?)なような、でも、ある意味、案外とど真ん中近くを射抜いているようでもある話題である。
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一本の蝋燭の焔に照らされ浮かび上がるものとは一体、何な のだろう。
何かの雑誌を読んでいたら、こんな一文に出会った。
→ 『う おつりぼし』 (「瓜南直子twitter展覧会」より) 彼女はあの世でどんな絵を描いてるのだろう…
「闇の海には無数の孤独なる泳ぎ手が漂っている。誰もがきっ と手探りでいる。誰もが絶えず消えてしまいそうになる細く短 い白い帯を生じさせている。否、須臾に消えることを知ってい るからこそ、ジタバタさせることをやめない。やめないことで それぞれが互いに闇夜の一灯であろうとする。無限に変幻する 無数の蝋燭 の焔の中から自分に合う形と色と匂いのする焔を追 い求める。あるいは望ましいと思う焔の形を演出しようとする」
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ネッ友の日記を覗いて、ショックな事実を知った。
一昨年、やはりネットで知った才能ある、若き画家の死を知ったのだ。
その方の名は、 瓜南直子さん。
← 瓜南直子「夜の図鑑」(画像は、作家 田川ミメイさんの 「 トルニタリナイコト@MimeiTagawa : 日本画家・瓜南直子 兎神国へ。」より) 「 瓜南直子のブログ 」へ!
瓜南直子さんワールドについては、以下の拙稿で勝手にコラボさせていただいた:
「瓜南直子作『寝目物語』 」
「瓜南直子twitter展覧会」
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ダニエル・デネット著の『ダーウィンの危険な思想』のほぼ末尾に、彼が大好きだというオーデンの詩が引用 されてい る。
それは、かのブリューゲルの絵画「イカロスの失墜」がオーデンをし て鼓舞せしめ書かせ た詩なのである。
「イカロスの失墜」は、「前景の丘の辺りに一人の農夫と一頭の馬が、そしてはる か前景に は、立派な帆船が一隻と、ほとんど見分けのつかない二本の白い脚が小さ なしぶきをあげて海 中に消えていくのが描かれている」(p.700 以下、特に断らな い限り上掲書の引用頁を示す):
← 伝ブリューゲル『 イカロスの失墜 』 (絵の詳細については、「 ピーテル・ブリューゲル-イカロスの墜落のある風景-(画像・壁紙) 」を参照のこと)
「イカロスの失墜」という話は、俗っぽく解釈すると、真理へのあくなき 追求という イメージ、神(権威・権力)への無謀な挑戦、同時に、にもかかわらず その<挑戦者>を取り 巻く周囲のあまりの無関心さ・沈黙という際立った対比とい う意味合いを示している。
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メメント・モリという言葉は有名なので、敢えて説明するまでもないだろう。 「memento mori」というラテン語の言葉が原語である。一般には、「死を想え」 とか「死を忘れるな」と 訳されている。でも、もう、「メメント・モリ」という 言葉そのものの形で広まっているので はないか。
小生が初めてこの言葉を知ったのは、オランダの歴史家ホイジンガの『ホモ・ ルーデンス』 を読んだ時か、それとも『中世の秋』を読んだ時だったか(『中世 の秋』は掘越孝一訳で、箱 入りのハードカバーの本で、世界の名著シリーズとし て公刊されたものだ。懐かしいな)。
い ずれにしても学生時代のことで、四半世 紀の昔のことだ。その頃、この言葉をどれほど切実感 を以って読んだか…、むし ろ、何か死をロマンチックにさえ捉えていたのではないか…、そんな 気さえして 何となくむず痒い。
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相変わらず風邪に悩まされている。
小生は喉がウイークポイントで、ちょっとでも冷たい空気の直撃を喰らうと、直ぐに喉が痛くなり、この症状から風邪へと症状が悪化し変化していく。
← ケネス・クラーク 著『風景画論』 (佐々木 英 也 翻訳 ちくま学芸文庫 筑摩書房)
夜、寝るときには、必ずマスクを装着する。
が、昼間、ちょっとした油断で喉を痛めてしまった。
つい、ロッキングチェアーに体を沈み込ませたまま、うたた寝してしまったのだ。
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先月のある日、出社したら、窓口でいきなりちょっと可愛い(?)バッジを渡された。
見ると、「おかげさまで タクシー生誕100周年」と銘打ってある。
← 「おかげさまで タクシー生誕100周年」(画像は、 「 タクシー生誕100周年[社団法人 東京乗用旅客自動車協会] 」より)
そのバッジを見て、小生の携わるタクシーが今年、百周年を迎えることを知った(言うまでもなく、日本のタクシー業界の話である)。
そういえば、小生が昨年よりお世話になっている会社は、昨年、50周年だった。
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もう、数年前のこと。
東京にて12年あまり、タクシードライバーだった小生のほぼ最後の頃のこと。
場所は早朝の環七。 小生は帰庫(営業を終え、会社に戻ること)しようと片側二車線の外側(歩道 側)を会社に向かって走っていた。
→ この写真については、「 百鬼夜行:クラクションが発端でした事件」( 2007/11/21 )を参照のこと
あと数分で会社という時、小生の運転する車の前に暴走族風のガキがバイクで車 線を跨るように蛇行運転していて、成り行き上、仕方なく小生もその直後を付いて走ることに。
後続の車が渋滞。
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