トルストイ…野アザミ…ダッタン草
トルストイは、ハジ・ムラートの投降に関して、彼の悲劇を、ロシア側の卑劣さを目の当たりにする。
老いたトルストイは、鋤返された畑の中に、無残に押しひしがれていた一輪の薊(あざみ)を見、ハジ・ムラートの無残な末期を思い出させ、『ハジ・ムラート』を書かせることになる。
← 蕾状態のアザミ (画像は、「 アザミ - Wikipedia 」より)
老トルストイは、「人間というものは、なんという残酷な生物だろう。自分の生命を維持するためには、実にいろんな生物や植物を、いくらでも滅ぼしてしまう」と書く。
これは、以下に示すように、小説の中のハジ・ムラートの末期の姿そのものなのだ。
小説『ハジ・ムラート』の中の印象的な一節( トルストイ 著 『コザック ハジ・ムラート』( 辻原登/山城むつみ 編 中村白葉 訳 中央公論新社)より):
「だったん草」の株は、三本の茎からできていた。一本は折りとられていて、まるで切り放された腕のように、枝の残りをにゅっと突きだしていた。あとの二本には、どちらにも一輪ずつ花をつけていた。これらの花はいつかは赤かったのだろうが、今は黒くなっていた。一本の茎は折れていて、折れた半分はさきにきたない花をつけたまま、だらりと下向きに垂れていた。他の一本は、黒土の泥にまみれていたけれど、依然として上向きに突っ立っていた。どうやらこれは、株全体が車輪の下敷きになったが、あとになって起きあがったものらしく、さてこそ横になってはいたが、とにかく立っていたのである。まさにからだの一部をむしりとられ、腸を露出し、片手をもがれ、眼をとびださせられているのであった。しかも彼は、依然として立ち、周囲の同胞をことごとく滅ぼしつくした人間に、降参しようとはしていないのであった。
《なんという精力だろう!》と私は考えた。《人間はすべてに打ち勝ち、幾百万の草を絶滅したが、これだけはついに降参しようとしないのだ》
→ スクリーン(衝立それとも屏風)を玄関ホールに設置。スクリーンの奥は茶の間。玄関から茶の間が丸見え。茶の間の隣は浴室への廊下。裸で行き来することが稀でないのだ。
余談だが、ダッタン草から、以下の有名な詩(?)をつい連想してしまったことを告白する。
何の繋がりもない。
てふてふが1匹韃靼海峡を渡って行った 安西冬衛
参照(?)拙稿:
「秋薊のこと」( 2004/11/03 )
「タンブルウイード 風転草」( 2006/05/26 )
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