行き先は何処?
「○×」まで。お客はただそれだけ言う。「横浜の、ほら、▲◆で有名な」
小生、分からない。聞いたことがあるような、ないような。大体、話がよく聞き取れない。随分とお酒が入っていらっしゃるようで、ご機嫌な様子だ。
「えっと、横浜のどの辺りでしょう」
「なんだ、知らないのか。お宅、何年、運転手、やってんの。大丈夫、オレが道、知ってるから走らせろ」
走らせろと言われても、一体、どの方向に走ればいいのか検討が付かない。小生、必死でお客さんが言われた地名を脳裏に響かせて、横浜のどの辺りかの見当を付けようとする。皆目、見当が付かないのだけど、やるしかない。
「あの、高速を使いますか。」
「そうだよ。だから、○×だってば。」
小生、そろりそろりと走らせ始める。とはいっても、いきなり右折か左折の選択を迫られるのだが、小生は左折を選んだ。
薄ボンヤリだが、あの辺りかもしれないという気がしてくる。随分と頼りない話だが、お客さんがそのうち怒り出すような気がする。トラブルだけは御免だ。
車を走らせて、交差点での信号待ちに賭ける。僅かな信号待ちの時間の間に地図を見て、お客さんが言った地名を探す。きっと、高速道路のどこかのインターの名前に決まっている。
お客さんの心理としては、自分が利用するインターや自分の居住する町の名は少なくともタクシーの運転手には分かっていて欲しいものである。
お客が地名を言う。「どこどこの辺りですね。高速だと、何号線を使って★◆インターで降りて宜しいでしょうか。」そのように、簡単な遣り取りで、あとは黙っていたら、まっすぐスムーズに目的地に向かってくれるのが一番なのだ。1
マイナーな(?)地名ですぐには分かってもらえないと経験上、知ってはいても、とりあえず地名を先に言う方も居る。あわよくば、地名だけわかってくれたら…、誰だって気分がいいのだ。
その気分を損ねてはならない。たとえ、分からない地名だったとしても、だ。その受け止め方、受け流し方の呼吸が難しい。
ああ、だけど、無情にも、こんな時に限って、信号には引っ掛からない。長距離のお客さんに遭遇するのは夜中だし、信号に引っ掛かる可能性がもともと低いのだ。それに、焦っているし、地図を慌てて見ようとするから、時間が足りなく感じてしまう。
あああ、とうとう高速の入り口に差し掛かった。一旦、乗ったら、地図を見ることも叶わない。仕方なく、高速の入り口の一つ手前の交差点が見えたところで車を路肩に寄せ停車。地図を見る。お客さんは酩酊に近いので、目を閉じているってことは、もう寝入っているものと思われるし。
それにしても、オレが分かってるから、車を出せってのも、無茶な話だ。何処へ向かって走らせろというのだ。横浜だって広い。東名を使うか、首都高の横羽線か、それとも第三京浜か、選択肢の幅は大きいのだ。
分かるってのは、きっと現地に着いたら、オレが道を案内してやるってことだろう。
でも、こちらが知りたいのは、どの高速を使い、どのインターで降りるか、なのだ。
なのに。「オレが知ってるから大丈夫」の一点張り。
懸命になって地図と睨めっこ。車内灯を点け、老眼鏡を使い、高速道路上のインターを虱潰しに見ていく。そのうち、お客が言ったインター名が見つかる。
あったー! 思わず、叫びたくなる。世の中が真昼間になったように明るくなる。梅雨の晴れ間の月影など探してみようか、なんて気分になる。運がいい。少なくとも、最悪ではなかった!
颯爽と、というか、こうなったらイケイケの気分で高速に乗る。最初に選んだ高速道路は間違いなかったのだ。お客さんを乗せた場所から右折すると東名、左折すると第三京浜か横羽線。左折で大正解だったのだ。東名沿線にはお客さんの言ったインターはないから、消去法で行くと、左折しかないのだけれど。
それにしても、御客さまの服装のことをとやかく言っちゃ、いけないことは分かっているのだけど、よれよれ。酔っ払いだから仕方がないようなものだけど、いつかのお客のように、現地に着いたら、お金がないと開き直る、なんてのも困るし辛い。
走るルートはハッキリしたのはいいけれど、今度は、着いたらお金を払ってもらえるのか、いや、その前に、いよいよしっかり寝入ったようだから、着いたら起きてくれるかが心配。
運転手には心配の種は尽きないのである。
しかし、お客さんを疑うわけには行かない。タクシードライバーは人を信用することで仕事が成り立っているのだ。お客さんに背を向けているのも、相手を信用している証拠と理解して欲しいものだ。
それにしても、最近にしては珍しいロング(長距離)。花の金曜日だと、昔はよくあったけど、最近はめったにないなー、なんて愚痴ってみたり。
はてさて、走るルートは花の金曜日にしては空いている道だった。一切、渋滞に懸かることなく順調に走った。走り出してから三十分ほどでインターを降りる。
振り返ると、案の定、お客さんは、グッスリ寝ている。心配。いつだったかのように、起きてもらうのに三十分も要するのではとドキドキ。最悪の場合は、警察のお世話になることもありえる。
高速道路の出口で右折か左折のどちらかを選ぶしかない。
「お客さん、着きましたよ。○×ですよ。」
起きる気配がないので、仕方なく、膝の辺りなど揺すってみる。
「んんん」
うん、脈はある。死んじゃいない。起きてくれそう。
「お客さん、起きてください。○×ですよ。」
小生、この期に及んでも心配なのだ。酔漢がちゃんと地名を言ったのかどうかも怪しいし、小生が聞き取れたかどうかも覚束ない。万が一、全く、見当違いの場所だったら、どうするか。もう、開き直るしかない。こんな商売を選んでしまったのだ、どんな事態も覚悟しないといけない。
「お? あれ? 相方はどうした? 何処で降りた?」
「いえ、お客さんは最初からお一人でしたよ。」
「……」
お客は目を閉じて、一旦は起こした体がまた崩れていく。
「すいません。起きてください。あとはお願いします。」
(注:念のために断っておくが、正しくは「すみません」である。この言葉の周辺については、拙稿「「すみません、海まで」のこと」を参照のこと。)
「ん? 奴は何処行った? 何処で降りたっけ?」
「いえ、お客さんは、最初からお一人でしたよ。」
「ん? そうか。で、ここはどこだ。」
お客さんの目は、トロンとしたまま。まだ、しっかり目覚めていない。小生も緊張している。ここで正解だという確信が持てないからだ。なのに、「ここはどこだ」と言われ、キョトンとされていたんじゃ、身の置き所がない。
そのうち、お客さんが、
「左だ、左、曲がってくれ」
小生、素直に曲がる。曲がるしかない。「左ですね。左、曲がります。」
あまり丁寧に返事したり、確認したりすると、煩いと怒り出すお客さんも居る。このお客さんは、その点は大丈夫そうだが…。
「ゆっくり…。おお、そこだ、そこ、曲がってくれ」
見ると、道というより、路肩の空き地のような場所。車が入れるような余裕もない。でも、言われる以上は、進入を試みる。
「あ、変だな。違った。」
「えっ。どうしましょう。」
「バックだ。戻ってくれ。」
後ろからは車がビュンビュン走ってくる。そんな中へ車をバックさせて、元の道路へ。緊張が走る。慎重に。自分が第一原因での事故は、ガードレールとの接触も含め、何年もないのだ。こんなところでつまらない事故やトラブルに巻き込まれたくない。
そろそろとバックして、
「あとは、どうしましょう。」
「うん、分かってきた。」
ってことは、今まで分かっとらんかったのか!
「そこだ、その路地、入ってくれ。」
さっきの脇の空き地と似たり寄ったりの路地だ。鋭角に左折し路地に車を滑らせていく。真っ暗闇の道。いきなりレンガの壁。トンネル。
「そこ、そこを右。で、すぐに左。」
複雑にハンドル操作。でも、気が確かだということが分かって、安心ではある。とにかく、目的地近くに来ていた。小生の割り出した地名でよかったのだ。でも、まだ、お客さんを最終目的地にお届けし、清算を済ませたわけじゃない。まだ油断はできない。安堵の胸を撫で下ろすのは、先の話だ。
「その坂道を道なりにずっと登ってって。」
真っ暗闇。街灯の明かりも、車のライトが眩しいよ、負けちゃうよ、とばかりに、足元の辺りを申し訳なさそうに照らし出している。これじゃ、自動販売機の蛍光のほうが明るい。
「そこ、そこの横断歩道の手前で止まって」
ああ、よかった。とにかく目的地にたどり着いたんだ。
お金の清算。この頃は、機械も複雑で、高速道路の通行料などがあると、操作が面倒。でも、現金払いのようだから、まだ、ましだが。
ん? 現金払い? 大丈夫かな。まだまだ気が抜けない。
「※∬円です。」
「そっか。じゃ、お釣り、幾らだけ、呉れ」という。計算すると、チップがなかなかの額になる。確かめるべきか。でも、念を押すのは、反ってトラブルのタネになりそうで、薮蛇に思われる。とにかく、トラブル回避が一番、大切なのだ。安全・的確・迅速(できれば、加えて快適)が運転手のお客へ提供するサービスだし、お客さんも無事で余計なことをしない、丁寧な応対で対応されるなら、それで十分なのだと思う。
お釣りと領収書を渡す。「ありがとうございました。お忘れ物のございませんように。」
バタム! 客用のドアの閉まった音。
→ ナデシコの群生! 我が家の畑に隣接する畑地に。昨年、女子サッカーで話題になり、テレビでは見たことがあったけど、こんなに間近で見られるなんて。
終わった。一件落着だ。運転手がホッと安堵の息をつく束の間の時。
それどころか、この方、「その道を左へ行けば、なんだ、あの、○×の交差点だから」なんて、親切に道まで教えてくれて。これなら、最初から教えてくれればいいのに。
でも、目が覚めるのは、一眠りしてからだから、仕方ないのだよね。
足元の覚束ないままに立ち去っていくお客さんの影を後ろに、車をさっさと走らせる。下ろした地名などを日報に書く必要があるが、お客さんから遠ざかってからの仕事である。お客さんがどの家に入ったかなど、プライバシーを追わないためだ。そして、できれば、次の仕事にありつくため、一刻も早く東京へ帰るのだ。
それにしても、心臓に悪い仕事だと思う。分からない地名でも分からないといけない。最後の最後、清算を済ませるまで気を抜けない。しかも、カードやチケットのお客さんだと、会社が相手先に請求して、ちゃんと正式な清算が成らないと、運転手の責任になる(と、会社から言い渡されている)。
営業中で運転手が、ホンの少しでも気が抜けるのは、帰路の道を東京へ急いでいる間だけではなかろうか。
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コメント
やいっちさん
こんばんは。
なでしこが今、見頃ですね。
私も先日近所で開花している花を
見掛けました。
タクシーのお話・・
読み進めながらとても緊張感が
伝わって参りました。
安全、的確、迅速、&快適!!
方向音痴且つ、のろまの私には
想像しただけで、恐ろしく冷や汗が。
標準語は「すみません」なのですね。
ずっと「い」で発音を?!
恥ずかしさを超えて自分に辟易・・
投稿: のえるん | 2012/05/19 21:56
タクシーエッセー面白いです。
横浜までなら、かなりおいしいお客さまでは。
けどトラブルは絶対ダメなのですね。
そこら辺は個人タクシーはどうなのでしょう?
バブルのころは乗車拒否なんて当たり前、運転手がふんぞりかえっていたけど、今はトラブル防止に緊張する、時代は変わった。
ところで、私新人なんでとか、この辺りよく知らないんで、なんて乗るや否や言ってくる運転手いますけど、これもトラブル防止?
投稿: oki | 2012/05/20 21:19
のえるんさん
長文のタクシー話、読んでいただき、ありがとうございます。
ほとんど、ドキュメントかも。
東京でタクシードライバーだった小生の経験談のようなもの。
似たような経験は、しょっちゅうは言い過ぎですが、少なからず体験しました。
ホント、神経がジリジリと削られるような。苦しさ。
タクシー業の大変さを世の中の方に少しは分かってもらいたい…切実な思いです。
投稿: やいっち | 2012/05/21 03:16
okiさん
タクシー業はシビアーな仕事なのです。
車を運転してお金になる安直な仕事といった印象、見下しが世間の一部にはあるようです。
事故、違反、トラブル、接客、営業、ノルマ、神経をすり減らす仕事だと言うことを分かってもらいたい。
私、新人なんでとかいったのは、下手な言い訳です。
それだと、客に舐められる恐れがある。
小生が使った手は、「わたし、この辺りは地元じゃないもので…」などでした。
暗にベテランだけど、タクシードライバーには縄張り(乃至、得意エリア)があるのだろう、という世間の半端な知識を当てにしたり、とにかく、新米じゃないという印象を客に与える、その上で、客には地元(だって、自宅、或いは客の行きつけの場所へ向かうのだし)のエリアなので、客に多少なりとも道順などを聞き出すのが穏当な手法です。
投稿: やいっち | 2012/05/21 03:29
やいっちさん
タクシードキュメント、面白いです!
色々お仕事、御座いますけれど
接客業務だけでも本当に大変・・
さらに、安全に迅速に!
臨機応変な対応。
想像するだけでも沢山のスキルが
必要とされるお仕事なのでは。
投稿: のえるん | 2012/05/21 22:31
そりゃそうだ、多摩ナンバーの車に遭遇したら、こっちだって詳しくないだろうと思うから乗りたくない。
基本的に僕は小田急タクシーとか京王タクシーとかまぁ地元営業と思われるタクシーに手をあげます。運転手に聞くと足立ナンバーの車は強引に割り込んできたり評判が良くない。すべての足立ナンバーが悪いとは言わないけど、世田谷区を足立ナンバーが走っているとは如何?
それはそうと今日は渋谷で人刺し、通り魔か、物騒だけど、こういう時しか最早タクシー繁盛しないのかな?
投稿: oki | 2012/05/21 23:05
のえるんさん
タクシー業務特有のたいへんさ。
どんな仕事もそれぞれに苦労があるのでしょう。
タクシー稼業も結構、苦労があるのだと世間の方に分かってもらいたい。
長々しい雑文を読んでくれてありがとう。嬉しい。
投稿: やいっち | 2012/05/23 21:26
okiさん
やはり地元ナンバーのタクシーを選びますよね。
まあ、東京は流しが多いから選択の余地があるのでしょうが。
富山県では、全県で富山ナンバーです!
足立ナンバーエリアには、一部、過去の経歴を問わない会社があるのでしょうね。
会社は、ドライバーの数さえ確保すればいいわけだし。
景気、悪いですね。繁華街も人気が少ない。
富山では流し営業が成り立たない。
結局、駅か病院かホテルで待機するしかない。
ホント、成績は運任せ。
成績のトップの方は、特定の顧客を持っている。
あるいは、無線配車でいい仕事を回してもらえるかどうか。
最後は、営業努力次第ってことですね。
投稿: やいっち | 2012/05/23 21:39