「廃園にたつ影」は我?
富山は昨日から春爛漫といった陽気。
気温こそやや低めだが、お陰で少々体を動かしても汗は掻かない。
しかーし、畑仕事となると、ものの30分も土興し作業をすると、汗だらだら。
この数年、父母が動けなくなった以降、放置したままだった畑。
その実、以前は田んぼだった土地。
今は人の手に渡ってしまって、管理を名目に、近所の方たちで分け合って、それぞれに思い思いの畑にしている。
→ 内庭のカエデ。紅葉の季節もいいけど、若葉が芽吹き始める今頃のカエデもいい。
放置状態なのは、元の田んぼの所有者である我が家だけ。
根っ子が頑固に蔓延ってしまった土地を数日を費やして土を起こした。
ようやく終わった。
使われなくなった土地から、廃園をふと連想してしまった。
それより表題の「廃園にたつ影」である。もう少し、患者である女性の言葉を引 用しておこ う:
彼女は黒い太陽の下に生まれた。 彼女は西方の太陽、太陽の背後に没せる太陽である。私は草地。 彼女は廃墟の街。
彼女は廃園にたつ影です。
水差しは、こわれてしまい、井戸も涸れてしまっている。

← 元我が家の田んぼ、今はよそ様の土地。土起こし作業終了。隅っこはシートを敷いて通路にする。畑として活用。近所の方はカボチャなど、作るとか。我が輩は、カボチャ、嫌いである。
注意すべきは、太陽であり、街であり、水差しであり、草地であり、井戸だと思 う。
彼女は、黒い太陽と言い、太陽の背後に没する太陽だと言い、廃墟の 街だと言い、廃園に たつ影だと言いつつ、実は、そうした語彙(太陽、街、水差し、 井戸)が、何か豊かなる世界 を示唆していることだ。
それは、彼女が豊かな世界を欲しているとか憧れているとか、逆に、豊饒すぎる 太陽や井戸 の水とかに圧倒されているということと同時に、それ以上の示唆として、 彼女の内面にはマグ マのように煮え滾る豊かな世界が潜んでいるのだということな のだ。
廃墟の街と化しているようであり、黒い太陽の下に生まれているとしか 思えないよ うであり、涸れた井戸かこわれた水差しとしか誰の目にも(彼女自身の目に さえも)映らないとし ても、それでも、彼女は依然として豊かな世界への窓口であ るということなのである。
あるいは端的に彼女は豊かなのだと断定しておこうか。
否定的な表現の裏に悲鳴の声を聞くのは容易い。
廃園や廃墟には、過去の殷賑な る世界を示 すだけではなく、未来への切なる希望の念も篭められているのだと思う。
廃園にたつ影。こ の言葉を読むと、どんな詩文より詩的な瞑想を誘う。胸を打つ。
影は何者かの影であるしかな いのだ。けれど、誰の目にもその人の姿は映らない。 そう、本人にさえその姿かたちが幻と化 している。 でも、それでも、やはり影は何かの影なのであり、何かを暗示しているのであり、 その何か というのは、やがては豊饒なる世界へとわれわれを誘ってくれる何かなのである。
影しかない世界。そんな世界はないのだ。闇の世界に迷い込んだとしても、その 闇夜のなか で悲鳴の声をあげる時、時空を引き裂く金属的な響きが走る。それは摩 擦を生じ、火花を生じ るさせる。 変幻し、掴み所がなく、実感など遠い記憶か夢に過ぎないとしても、それでも、 心の影は、 そこにある。
→ 土を起こす前はツクシの野だった。放っておくと、ドクダミとスギナの野になる。それくらいなら、カボチャの野にしてもらう!
心の影とは、きっと肉体の悲鳴なのだ。肺腑のシグナルな のである。
涸れ果てた心。疲れきって摩滅した精神。肉体と分離してしまった心。
でも、廃園に影がある限りは、肉体と心とは決して決定的に分離しきっているわ けではな い。そのことの証左が影なのである。
影は何者かの影。そう、心と肉との 諧調の予感なのである。
(「「廃園にたつ影」とは」(02/05/27)より)
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