怠惰に過ごす!
春爛漫、誰かの記憶違いの表現を借りれば、春爛々、である。
さすがに四日続きの快晴とはならなかったが、春霞というのか、日差しも朧に和らげられていて、一層、好ましい。
← 『 怠けものの話 』( ちくま文学の森 ) 「 ちくま文学の森 」シリーズの本もこれで四冊目。短編集なので車中の友として。最適。帯には、「なにごともせぬのが一番」とあり、期待に胸が躍った… が、トコトン怠惰に執した世界は見いだせなかった。まあ、比較対照の相手というのが、ロシアの小説家ゴンチャロフの長編小説『 オブローモフ 』なのだから、無理はないか。この小説、あまりに嵌まった。なので、再読するのが怖いくらいなのだ。( 画像は、「 筑摩書房 ちくま文学の森 9 怠けものの話 / 安野 光雅 著, 森 毅 著, 井上 ひさし 著 」より)
久しぶりの…我が職業には珍しい連休を、のーんびり過ごしている。
…などと、小生、たまには書いてみたい。
しかし、東京在住の頃とは違って、田舎とはいえ、狭からぬ庭付き一戸建て住宅に居住する、何も事情を知らない方には、贅沢な環境。
しかも一人暮らし。
誰も朝、起きなさいとは謂わないし、食事だよ、とも呼びかけない、寝るのも一人、恐らく末期も孤独のうちに、という夢のような境遇にある。
せっかくの休みなのだ、何処かへ出掛ける、出掛けないと、なんて切迫感も焦燥感もない。
今日は何もしない! と自ら決め込んだなら、実際にその通りに事が進んでいく。
何かの集金、でなければ勧誘の人以外に我が家の静けさを破るのは、テレビか庭へ迷い込んだカラスの喚き、それとも締まりの悪い蛇口からポタッポタッと漏れ垂れ落ち、ステンレスの面に弾ける水滴くらいのもの。
しかしそこは意志薄弱な小生である。
のーんびりを満喫するつもりで一歩玄関の戸を開けたのが運の尽きであった。
突っ掛けを引っ掛けて、日差しに誘われるまま庭先をぶらぶらしていたら…
お釈迦様は生まれて三歩歩くと説法の言葉を吐いたとか。
小生は、さすがに三歩じゃなく、十数歩ほども歩いたところで、雑草が目に入った。
→ 西日の当たる部屋の廊下。畑の除草用に用意したシートを日除け対策に張った。
悪い予感は脳裏に兆していた。
よせばいいと分かっていた。
小生の習性というのか、つい、雑草を引っこ抜いた。
一つ引っこ抜くと、すぐ傍の雑草にも目が向いてしまう。
一本だけ抜いて、何故、すぐ傍の雑草を抜かない?
抜かない理由が見当たらない。
誰かに、一本だけ抜いて、すぐ周りの雑草をそのまま放置するなんて、お前は何て非合理な奴だと難詰されても困る。
反論の余地がない!
とにかく気になる。
地べたにしゃがんで、地面に間近なの視線になると、ついこの前の薄ら寒い頃の陽気、それが故の草の生え方の緩慢さが嘘のように、大地は雑草の原野に変貌を遂げつつあるのがまざまざと思い知らされる。
結句、小生はホンの気まぐれ、出来心で一本だけ目立つ雑草を引っこ抜くはずが、あれもこれもと、一時間以上も、サンダルを突っかけたまま、庭の方々を這い蹲る羽目になったのだった。
出掛けるのが面倒で自宅に籠もるはずが、庭の隅っこをうろつき回ることに時間を費やすなんて、何たることか!
そんな小生なので、休日なのに本を読むのは相変わらず就寝前に睡眠薬代わりに眺めるか、起きがけに目覚まし代わりにすう頁、かじるだけ。
読書のほうは一向に進まない。
ようやく、『 怠けものの話 』( ちくま文学の森 )を読了。
読んだのは車中での待機の合間。
今や仕事中の車中が書斎代わりである。
← 日除けのビニールシートを張ろうと、裏庭に足を踏み入れたら…なんと、木蓮が。裏庭に木蓮があるなんて、帰郷して四年あまり、初めて気付いた。念のために断っておくが、毎年、裏庭の草むしりはおこたっていない! ほとんど毎日、家の周りの庭は、草木の育ち具合を観るためにも、散策しているのに!
本書の解説…代わりのエッセイを数学者の森毅氏が書いている。
題名は、本書のテーマに相応しく、「怠惰について」。
何てことはない小文だが、文学(小説のみならず詩も含む)の真髄は怠惰にあり、怠け者こそ文学者たるう資質だ、という主張(メッセージ?)には感銘を受けた!
特に詩は、ペイジに空白が多いのが好ましい。
詩は、省エネの営為の極北である。
小生が俳句好きなのも、存外、そんな所に理由があるのかもしれん ! ?
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