誕生日に寄せて
人が生まれるというのは、どういうことなのだろう。
それこそ、動物などが生まれるというのとは、明らかに違うような気がする。 別に人間様が動物より上だとか、優れているということではなく、暦の中に自分 の生まれた日を見出す時、誰しも一入の感慨を抱くということ、ただ、そのこと を思うのである。
思うに、植物の類いは誕生日を持つのだろうか。今日、生まれたの、なんて、 感じるのだろうか。種が開 花をした日が、誕生日に当たるのか。でも、植物自身 は恐らくは何も感じないでいるのだろう。ただ、咲き、ただ、生い茂っているの だろう、きっと。
動物には、人間様と同様、生まれた日はあ る。
さすがにこの世に、おぎゃーとは生まれて こないが、でも、出産という母体からの分かれ の日が確かにある。母体からの別れではある が、しかし、母との対面の日でもあるわけで、 その日を境に、一個の個体として生き始める。
けれど、動物は暦を知らない。一年の区切り など知らない。動物をペットとして飼う人間 が、勝手に思い入れをして、今日はこの子が生まれた,特別な日よ、なんて、何か御祝い めいたことをすることがあるだけだ。
それでも、動物は、我関せずで、今日も昨日と同様に生きる。今という瞬間の 中に、ご主人様との会話や戯れの時を愉しむ。明日は知らないし、昨日も知らな い。今日という日も、きっと知らないのだろう。今、生きていることに目一杯な のだ。
そんな中で、人間は、全ての人間はとまで勝手に言うわけにはいかないかもし れないが、大抵の人間は暦を気にする。昨日を引き摺っている。昨日どころか記 憶にしか残らない遠い過去をも引き摺っている。今日というのは、昨日までの過 去と明日、あるいはもっと先の未来との狭間に生きている。 今日は過去の清算の日だったり、明日のための準備の日だったり、なければい いような日だったり、否、むしろなかったほうが遥かにマシな日だったりさえ、 する。
今日は特別な日なのだ。何しろ、私が生まれた日なのだから。
が、今日という一日は、私の感懐とは関係なく、いつものように淡々と、ある いは慌しく過ぎていく。それは、世界中の無数の人々が、私とは関係なく、私を 欠片さえも意識することなく、私の傍を、あるいは私から遠い世界を通り過ぎて いくようなものだ。
人は誰でも、その人だけの人生を持っている。誰にも気付かれないとしても、 でも、私は私でなければ支えられない何かを懸命に支えている。 フッとした瞬間に気が遠くなって、絆に縋る手を放しそうになるけれど、で も、私は何かを必死になって握っている。
私とは、その懸命さ、健気さなのだ。
誰にも、私が何を握っているのか、説明できない。自分にだって説明できない のに、できるわけもない。でも、その人には恥ずかしくて言えない、その健気さ で、今日をやっとの思いでしのいで生きる。
私は、今日、生まれた。今日という日は、特別。何かが違うはずの日。
でも、遠く離れてしまったはずの、絆を疾っくの昔に断ち切ったはずの誰か が、不意に私を思い出し、私に「誕生日、おめでとう、あなたに逢いたかった よ」なんて言ってくれることを期待するような特別な日。 いつものような朝、昨日と変わらない朝なのに、でも、何かしらが違っていて いいはずなのにと思ってしまう朝。
私は、今、平凡な人間として生きている。自 分のことを特別な人間だなんて思わなくなって 久しい。煌びやかな脚光からは、どんどん離れ 去っていく人間。日々の勤めを果たすことに、 精一杯な、自分のことより、周りの誰彼の世話 や付き合いに忙殺されている人間。
ああ、でも、それでも、私は、私という人間 はこの世に独りなのだ。
たとえ、世の中の誰一人として私のことを理解せず、それどころか名前さえも 知らないのだとしても、あるいは、今日、否、たった今、私が消え去っても、誰 一人、悲しむどころか、気付きさえしないとしても、でも、私は私にとって掛け 替えのない人間。私を理解しているはずの唯一の人間。
そんな私の胸の底には、掛け替えのない人がいる。きっと、その人だけは私を 見つめていてくれる。仮に、今日、その人から何の便りもメッセージも届かない としても、その人だけは胸の奥底で私のことを思っていてくれるはずだ。
友達の「誕生日、おめでとう!」という歓声が上がっても、私は独り。私はそ の人の声の鳴り響くのを待っている。私は独り待ちつづけているのだ。 青く透明な闇の彼方から、私に向かい、「待っているんだよ」、と語りかける 何か。
明日はどうなるか、分からない。明日になっ たら、やっぱり緊張の糸が切れてしまうのかも しれない。でも、取りあえず、今日は生きてい る。生きているという奇跡をしみじみ、胸の底 から堪能している。 この胸のどうしようもない寂しさ、吐き出し たくなるほどの淋しさ、あるいは哄笑したくな るほどの愚かしさの自覚。その中に私はいる。
私はただの意地っ張りなのかもしれない。
生きるとは、私を選ぶこと、私が私を愛でること。そんなことが、この年に なってようやく分かった…。 それだけでも、もしかしたら、十分すぎる生きることの恵みなのかもしれな い。
(原題:「誕生日……人が生きるということ」)
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コメント
お誕生日は一昨日でしたか。
おめでとうございます。
誕生日の気分を堪能するためにも
誕生日月間、せめて週間くらい
設定してもいいと思いますよ。
「自分のことより、周りの誰彼の世話 や付き合い」
これも素晴らしいことだと思いますよ。
とても現在の自分にはできていません。
日常でおもてだって感謝の表現は
してもらえないのかもしれませんが。
自分へのごほうびなどの
ささやかな贅沢などもいいかもしれません。
お金を使うのは、という声も
聞こえてきそうですが、
たとえば新しいカップとの出会いなども
気分が変わるきっかけになるかもしれませんよ。
もうちょっと贅沢できればさらによしですし。
また訪問させていただきますね。
(ブログの引越しまでいくかは分からないですが
新しいサイトにバックアップし、少し更新しています。
いきさつも新しいサイトの記事にあります。
いままでのブログも残っています。
更新ペースが遅い可能性もありますが、
新旧ブログともどもよろしくお願いします。)
投稿: はもりこだま | 2012/02/29 13:05
はもりこだまさん
誕生日メッセージ、ありがとう!
今年も一人、淋しい誕生日となりました。
自分らしいと言えば自分らしい過ごし方だったかな。
日頃の人との接し方の結果ですね。
お一人様でも工夫して有意義に過ごせるはずですね。
サイト、切り替えされるのでしょうか。
これまでのサイトも温存されるとのこと。
これからも宜しくお願いします。
投稿: やいっち | 2012/02/29 21:14
誕生日でしたか、おめでとうございました。
弥一さんはこの言葉をご存知でしょう。
一人いて喜ばば、二人と思うべし、二人いて喜ばば、三人と思うべし、その一人は親鸞なり。
なにも申しません、少し一人で贅沢されたら。
普段買わない高い本買うとか、高い食べ物食べるとか。
さて、西友でズボン買った850円、今は安いですね。
大雪降るおかしな東京より愛をこめて、笑。
投稿: oki | 2012/02/29 22:40
okiさん
メッセージ、ありがとう!
含蓄ある言葉ですね。
どこかで聞いたことがあるような。
誕生日を愛でるため、何か特別なことをする。
孤独に…孤立気味に生きる者は、自分なりの生きる知恵が必要ですね。
自分が一番寂しかったのは、オートバイを降りた時です。
四半世紀以上、オートバイと共に生きてきた、それを断念する淋しさをこの世にただの一人も共有・共感する人がいなかった。
そうそう、東京在住時代の最後、12年以上続けたタクシードライバーを辞め、離京する際も、寂しさを痛感したものでした。
言葉の真率な意味で必死に懸命にタクシードライバーとして勤め上げた、それを降りる感懐の深さ、それを誰も分からない、上辺の同情すら、誰もしない。
親も含め身内も全く知らん顔。
自分にはそもそも心を分かち合う人間など一人も居ないのだと思い知らされたももでした。
誕生日をただの一人も知らない、そのこと以前の自分の人間性の問題なのでしょうが。
投稿: やいっち | 2012/03/01 21:43