除雪今昔?
「 雪掻きあれこれ 」
(前略)
こんなに長く正月を田舎で過ごすのは学生時代以来だ。 このことが、今日の雪掻きに繋がった。例年通り、4日頃には帰京し ていれば、5日の一気 の積雪を見ることはなかったのである。
4日の午 後までは市街地には全くといっていいほど雪 はなかった。年末に二度ほ ど30センチほど積もったらしいが、その名残が日中でも日の当た らな い、屋根から落ちた雪が溜まったままの場所に、少々垣間見られるだけ なのだった。
降り出したのは、昨日の昼ごろからである。が、積もりだしたのは、 午後の3時過ぎから だった。積もりだすと、あっという間である。夜に は10センチほどになった。
しかし、それ も夜半には一旦、雪も止み、 予報が言うほどには降らなかったなと思いつつ夜半過ぎに寝入っ た。
起きたのは午前の11時だったか。正月はトーマス・マンの『魔の山』 を四半世紀ぶりに読 み返すつもりで、雑用の合間合間に読み進めていて、 前夜も3時を回ってまで読んでいたの だ。それで起きるのも遅くなった のだ。
起きると、外が明るい。あれ? 予報の大雪とは話が違う、晴れてる じゃないかと窓を開け ると、びっくりである。一面の銀世界、しかも、 積雪が50センチ近くになっている。
ほんの一晩で、こんなにも世界が変わるなんて。 こんな経験は、田舎に暮らしていた頃は当たり前のように経験してい た。そう、昭和の40 年代の後半くらいまではピーク時には最低でも1 メートルは積もるのが当たり前だった。
それも毎日、少しずつというのではなく、日を置いてドカッという感 じで降るのだ。降ると きは容赦なくなのだ。午前中に一度、雪掻きをし、 日中のまだ明るいうちにやり、どっぷりと 暮れた頃にやり、寝る前にも う一度、念のためにとやる。
それでも、雪は降り続く。
昼行灯の自分だが、何故か雪掻きだけは好 きだった。
屋根の雪 (といっても、屋根の上に登っての雪掻きは、父の 手伝いの形でしか許してくれなかった。だ から庇から食み出る部分を竹 竿で叩き落すのみ)、杉や椰子などの木立に積もった雪、生垣に 巨大な 綿帽子のようにしてスッポリ被さっている雪、無論、庭の表の道へ通じ るための道や裏 の納屋へ玄関口から向かうルートの確保など、最低の課 題である。
帰京する日が一日ずれたばっかりに、昔の豪雪の日の記憶が蘇るよう な体験をすることがで きたの だ。蘇らないのは父母の積み重ねた年齢で あり、怠けきった自分の体と心だ。
あの、豪 雪が当たり前だった日々、 遠い将来の自分がこんな情けない人間になるとは、到底思わなかっ た。 いくらなんでも、これじゃひどすぎると思う。 が、これが現実なのだ。歳月の堆積にただ安易に流された当然の結果 なのである。
一日、上京がずれることが、このような体験となったのなら、きっと 天の配剤、報いなのだ ろうと思ったり。
昨年の正月も幾度か雪掻きをしたが、その翌日、晴れてしまって、雪 が呆気ないほどにペ シャッと溶けてしまったものだった。
前日の汗びっ しょりの苦労は何だったのかと思わせられ るのだ。
でも、これが雪国に 住むものの定めなのだ。 一日、待てば、もしかして晴れ上がり、屋根の雪も、道路の雪も一気 に溶かし去ってくれる かもしれない。
でも、そうでないかもしれないの だし、仮に明日、予報で晴れるのだと分かっ ていても、今、とりあえず 人が通るための道を確保する必要がある限りは、せっせと雪を掻 き、汗 を掻き、湯気を吹いて、黙々と労苦を重ねる以外にないのだ。
晴れれば消え去る意味のない労苦。なんとか頑張っても、降り止むこ とのない空。
好きな小説の一つに川端康成の『雪国』がある。若い頃、幾度、読み 直したかしれない。あ の夢のような、象徴の海の底の真珠のような小説。 今、読み直したならどんな感想を持つだろうか。
あの遠い日の自分は 雪をものともしない若 さがあった。東京への憧れがあった。田舎を去り たいと願っていた。そして都会へ出るという 最初の志だけは果たした。
あの頃は、自分には『雪国』は、主人公の島村に共感しつつ読めて いた。
たまさかに雪国に赴き、その地の芸者に出会う。それは『伊豆の踊り 子』と同じ設定だ。あ くまで主人公は(語り手は)旅人なのだ。当時の 自分も旅人として芸者や芸人を想い、一抹の 夢を追うことが出来た。
雪は美しい。遠くで眺めている限りは。芸者も芸人も、たまに遊ぶに は楽しい。遊び相手と して恥の掻き捨てをするだけなら。
でも、根雪の中で暮らす人は違う感覚を持っている。
雪が嫌だからと、 芸者であることが辛 いからと逃げ去るわけにはいかない。
旅人が去った ガランとした部屋。人気のない部屋のなん と寂しく冷たいことか。芯ま で冷える。そして雪は降り続くのだ。 こんな感懐を抱く自分も明日は上京する。
都会では名の知れない片隅 で人知れず日々を送 り、田舎では馴染む人もいなくなって根無し草。も う、旅人でさえない。
共に歩く人も、ただ の一人も居ない。明日は茫漠 たる闇である。深い雪の山の道なき道を歩く。
闇の道は、雪の道より始末に終えない。そもそも道も雪もないのだ。 掻こうにも掻きようが ないのだ。空無の細い筋を辿るがごとく、しかし 辿りようもなく歩き続けるのである。 さて、こんな感懐を抱くことが出来るというのも、雪のお蔭だし、正 月のお蔭なのである。 その意味では雪に感謝しないといけないのかもし れない。
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