「祈り」を巡って(その2)
← 大晦日、ホームセンターへ行って、融雪ホースを買ってきた。その日、早速、玄関の外の水道の蛇口に接続。水を流してみる。各所に空いている穴から水が吹き出る。でも、10メートルの長さで7千円。我が家の細長い庭には、あと20メートル以上のホースが要る。高い。そこで、前から考えていた着想を実行に移すことにした。納屋の古いホースを3本(それぞれ10メートルくらい)取り出し、キリで穴を空ける。それら接続し、勝手口から裏庭を回って表の玄関へ、さらに庭の入り口まで延長させた。改めて水を流して実験。キリで空けた穴だと、空き具合が不揃いなのは覚悟の上。水の出のいいところ、全く出ないところといろいろある。でも、これで、庭の入り口から玄関先、さらに勝手口まで融雪ホースが設置されたことになる。この作業に出勤日を含め、延べ4日を要した。あとは雪の降るのを待つだけ。…別に降って欲しいわけじゃないけど!
さて、本文へ!
祈る心がある。
が、闇の世界に踏み惑った人間には、祈りを捧げる場がない。
あるいは、方向感を失った人間には、祈りを闇の何処へ向けて捧げればいいのか分からないのである。
→ この門をくぐった瞬間、この光景を見て、子供の頃に、そして数年前に訪れた際の記憶が一気に蘇った。
無論、祈りは、ただ、祈りであればいい。ただ、闇に向かって祈りの思いを発すればいい。それは、業に溺れきった人間の救いを求める唯の叫びあるかもしれない。声なき声に過ぎないかもしれない。
でも、その溺れるものが藁をも掴む思いで「助けて!」と叫ぶのであっても、それはきっと祈りなのだと思う。それでいいはずなのだ。
が、何をも信じていない私には、祈りは祈りに終わるべきものに過ぎない。闇の果て、闇の奥には、沈黙よりも遥かに凄まじい空白があるだけ。
私は神も仏も、その存在を否定しない。また、多くの人が神か仏かの存在を信じていることも知らないわけではない。
けれど、私は、人には神も仏も決して見えないものであることを思うのみである。
← そろそろ暮れ始めた頃に降りだした雨の中、スタッフたちは中継の準備作業に余念がない。雨は、間もなく雪に。
私の肉眼に見えるほどのものなら、それは仏でも神でもない、それは何かの幻像、何かの狂気、心の空漠の底知れぬ深さに怯えるが故の、めくらましなのだと見なす。
私は仏像を全く認めない。そんなものは、どんなに美しいとしても、仏への心からの希求の念を眩しさと神々しさで、心の目を逸らしているに過ぎないと思う。
神も仏も人間からは遥かに遠い存在なのだ。
黙々と、淡々と、あるいは忙しく、ひたすら餌を求め歩くその様は、たまさかの巣穴という名のこの世の踊り場から、この世に何故かしら現出した蟻たちをその先の知れない遠い世界へ、ともかくも歩くことを選ぶしかない空しさのようなものを私に覚えさせた。
→ 駐車場から石段の上の境内を見上げる。幾つものスポットライトが照らし出している。
私はここにいる。孤立しているとはいえ、ともかく、この世のここにいる。私は何かを欲している。それは救いなのか、愉しみなのか、悲しみなのか、悦びなのか、自分でも分からない。が、そのどれもが結局は、当座の踊り場の数々に過ぎないことを嫌というほど、知っている。
つまり、やはり私は何処とも知れない闇の果てからここに至りついているように、何処とも知れない闇の彼方へ、例え目には足を留めていてでさえも、歩き去ってしまう。
神や仏は、この世の外にいるに違いない。この世の中にいるはずもない(スピノザのように神がこの世に偏在しているとでも思わない限りは)。
← 明るいうちに登った石段だが、暮れ初め、ライトに浮かび上がる光景は、違う世界に映る。
が、人間は逆立ちしてもこの世にあるしかない。その人間の叫び、祈りは、それがどれほど真率なもの、心の底から発せられたものだとしても、それはこの世の声でしかない。
沈黙の声は空漠たる闇の中で、木霊さえしない。
私は何ものかに触れえるかもしれない。木々の幹に、家の壁に、柱に、誰彼の衣服の裾に、あるいは肌に。そう、風にさえ吹かれてみることができる。その足を緩めることはあっても、やむことのない風という名の、目に見えない息に。
私は水の滴る音が好きだ。その光景も好きだ。一滴の水に、私は大袈裟ではなく、無限を感じることがある。
そう、私は清冽なる水に触れることさえ、できる。
そうした現象の一切は、この世のものである。そうした現象の数々を、その相貌の数々を味わい楽しむことができるだけでも、それは、きっと凄いことなのではなかろうか。
けれど、祈りは祈りであり、この世の外に届くことはないのだろう。
→ 「八体仏」や「六本滝」など、夜には異形の相を示しているようだ。
そうだ。私は祈りが届くから、届くことを期待して祈っているわけではなかったのだった。祈るしかないから祈っているのだ。それが悲鳴に他ならないとしても、他にどうすることが私にできようか。
祈りの果てにあるものは…、きっと、闇。
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