« 「真言密宗大本山 大岩山 日石寺」へ(後編) | トップページ | 「祈り」を巡って(その2) »

2012/01/02

「祈り」を巡って(その1)

 そうした小生ではあるが、祈る気持ちだけは持っている。たとえ、わが寓居に仏壇も神棚もなくても、目を閉じて瞑目する中に、この先の人生が闇の果ての崖があるばかりと予感するばかりと、何か暗澹たる思いが沸き立ち、誰かに縋りたくなる時があったりする。

Nissekiji_046

← 「六本滝」 「六大(地、水、火、風、空、識)を型どった6つの蛇口から流れる滝に打たれることにより、六欲煩悩を洗い落とすことができ」るという。六根清浄。「ゆく年くる年」のテレビ中継では、この滝での滝業のようすが映し出されていた。

 友の、あるいは友の近親の、あるいは小生自身の近親の不幸を、それとも、己自身の蒙昧なる心性の闇を、天なのか、それとも地にあるのか知れない何ものかに祈るしかない思いに満ちる時があったりするのだ。
 祈るのは、何もお寺へ、あるいは神社に足を向けなくても、禊でもして、それとも水垢離をし、裃か白無垢の姿になっていなくても、祈る気持ちが深甚であれば、それはそれでいいはずだと思う。

Nissekiji_048_2

→ 小道の奥のお堂が床しい。「平成17年建立。愛染明王の他、加賀前田家の不動明王、秘石誕生石等が安置されてい」るという、「愛染堂」か。

 病に倒れてお寺や神社どころか、家の仏壇の前に立つことさえ叶わなくなったとしても、心の何処かに真率なる思いが、祈らんとする切なる情があるなら、祈りが叶わないとしても、それが既に祈りであることは神か仏だけは認めてくれるのではないか。

 祈りは気持ちのなかにこそある。心の中にあればこそ神か仏への祈りは真実なるものとしてある、そう小生は信じたい。

 たとえ神社やお宮やお寺から遠くはなれたところから、あるいは病床から、あるいは旅の空から祈ったのだとしても、それは優れて宗教的な行為なのではないか。神や仏は、その祈る人の身が穢れていたら、衣服が改まっていなかったら、そんな者の祈りなど、汚くて受け止めないとでもいうのか。神や仏とは、そんなに料簡の狭いものなのか。

Nissekiji_052

← 「阿覚窟」 「明治30年、一覚和尚により造立される。中には厄除大師(弘法大師)が御安置されてい」るとか。中は覗かなかった。

 小生は特定の宗教の宗派の信者ではない。そもそも仏教徒なのか、時折ではあっても神社にお参りする上は神道の徒なのかさえ、分からない。けれど、宗教的心性は大切だと思う(但し、若い頃、親鸞の書を読み齧っただけに、中途半端ながら、親鸞の思想にかぶれているかもしれない)。
 この世は、愚か者の小生には目に見えるものしかなきものと思う。だからといって、目に見えないものまでもないと断じようとまでは思わない。

 祈りが通じるものであるとさえ、小生は思わない。祈りが通じないなら信じないなんていう卑しい気持ちだけは、愚か者の小生にもない。祈りは祈りであればそれでいいと思う。
 闇の道に踏み迷ってしまった己の業の苦しさの果てに祈りの気持ちが心底から生じれば、素直に祈るだけだ。

Nissekiji_102

→ ライトアップされる本山。このあと、雪が降り出す。ライトに照らし出される中、雪のちらつく光景に見惚れていた。雪がライトに近づくにつれ、真っ白から純白に、そして雪の蛍のように輝き、(光源から逸れるに連れ)燃え尽き、消えていく。

 そう、祈るだけなのだ。それで十分なのだと思う。祈ることができるだけでも、人は人であることが証明されているのだと信じたいのである。

                       (01/09/05 原作

|

« 「真言密宗大本山 大岩山 日石寺」へ(後編) | トップページ | 「祈り」を巡って(その2) »

旅行・地域」カテゴリの記事

旧稿を温めます」カテゴリの記事

哲学・思想・宗教」カテゴリの記事

写真日記」カテゴリの記事

祈りのエッセイ」カテゴリの記事

コメント

親鸞ですね、親鸞は念仏すれば救われる、なんて簡単に解釈する人がいますけど、親鸞は救われようとしてあらゆる行為をしたわけですよね、そしていづれの業も及びがたき自分に気づいた。
阿弥陀の救いは向こうからやってきたのですよね。
親鸞においては念仏は阿弥陀への感謝だときいたことがあります。
しかも親鸞の凄いのは自分が救われれば良しとはしない。
浄土に行っても今度は衆生を救うためまたこの世にかえってくるのですよね。
阿弥陀とは光だと言う。
宇宙をのべる者の大いなる意思の働きと僕は理解してます。
恒星があり、その廻りを惑星が公転してぶつからない。
この事一つとっても宇宙には意思があるとしか思えません。
古代の人々も何か感じとっていたのでは?
年の始めにふと考えます。

投稿: oki | 2012/01/02 22:57

okiさん

親鸞の思想を思うとき、教導者としての親鸞を考えることももちろん、大切ですが、少なくとも小生のような凡夫の輩の場合、教え導かれるものとして、どう受け止めるべきか、という観点が肝要に思います。
教導者あるいは求道者としての親鸞や法然、阿弥陀や仏陀らの艱難辛苦は、小生の想像をはるかに超えるものでしょう。
小生などにできるのは(それさえも難しいけれど)、せいぜい祈りの時を折に触れ持つことくらい。
救われたいという真率な思いの、せめて瞬間をでも持つこと。
それだけのことができただけでも、凄いことに思えます。

okiさんの仰られるように、凡愚にははからいなど愚かなこと、思い上がりの所業で、阿弥陀様たちの救わんとする決意とはからいとで、ようやくにして、ギリギリの土壇場に南無阿弥陀仏と祈る、その一言で救われればいいわけです。

念仏…念ずれば救われるというのは、浅はか極まる理解なのは重々承知の上で、その上で、やはり、念ずれば救われると信じたい、愚かで我侭な思いは牢固たるものと思うわけです。

投稿: やいっち | 2012/01/03 21:09

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「祈り」を巡って(その1):

« 「真言密宗大本山 大岩山 日石寺」へ(後編) | トップページ | 「祈り」を巡って(その2) »