ダニエル・タメットを読む
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昨日、とうとう我がパソコンが壊れた。
もう、一年以上も前から故障の前兆、前駆症状は現れていた。
ノートブックパソコンを愛用していて、前代のは、モニター画面表示が不能となったのが初期症状で、それから徐々にあれこれ不具合が発生したが、今回は、キーボード入力が不能となったのが最初のトラブルだった。
無論、キーボードくらいは交換(USB接続)でなんとかなった。
それが昨年の始め頃だったか、パソコンから異音が聞こえてくるようになった。
ウーッというかグイーンというのか、とにかくモーター(?)が唸り声をあげているような、不安にさせる音。
最初は小さかったり、鳴らなかったり、症状は不規則に発生してきていた。
最近は、電源を入れた瞬間の異音は、それこそいつ息の根が止まってもおかしくはないと覚悟はしていた。
その日が昨日ついにやってきたのだ。
今は、応急処置でブログの更新を試みている。
その詳細は別に日記に書くつもり。
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過日、来訪者との雑談の中で献体のことが話題に出てきた。
ある七十代早々の方が亡くなられた。
お寺の住職さんがお勤めに行ったら何だか家の中がごたごたしている。
まあ、誰かが亡くなったりすれば多少は慌ただしくなるのも取り立てておかしなことでもない。
が、その家での混乱は普通ではなかったとか。
というのも、亡くなられた方が家のかたたちに全く相談も了解もなしに、(大学の)病院に(それとも、しら百合会に)献体の約束をしていたというのだ。
(通夜か葬儀の前に)係の人が遺体の引き取りに来て初めて家族らが知った、というのである。
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ジャック・ケルアック著の『オン・ザ・ロード』を読了した余韻も味わう間もなく、手は次の本へ伸びていた。
← 反対側は、東向きで、立山連峰を一望することができる。でも、仕事の都合で、肝心の光景をカメラに収めることはできなかった。残念。その後、間もなく、連峰は深い霧(靄)に沈んでいった。
それは、先週購入してきたダニエル・タメット著の『天才が語る サヴァン、アスペルガー、共感覚の世界』(古屋 美登里 訳 講談社)である。
衝動買いに近い形で買った本だが、よくある(都合のいい、ありふれた)天才論の類いじゃなく、まさに本人がサヴァン症候群(人とのコミュニケーションにハンディをもつアスペルガー症候群でもある)に悩まされつつ育った。
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この数日の例年をずっと上回る(三月上旬ほどの)気温に恵まれ、日陰に溜まっていた根雪もほぼ融けてくれた。
我が家の屋根から落ちて積もって出来た雪山も、せっせと掻き崩し、日向へ運び、あるいは放り投げて、散らばらせて、昨日からの雨で、ほぼ消え去ってしまった。
← 富山市点景。1月19日。
と思ったのも、束の間、今日は朝から冷たい雨。
雨は、折々、霙(みぞれ)になり、雨になり、そして午後の四時前後頃からとうとう紛れもない雪になった。
(思わず、霙交じりの雨、あるいは霙交じりの雪、なんて表現を使いそうになったが、辛うじて思いとどまった。つい先日、それは誤った理解で、雨と雪が混ざった状態が霙、つまり、霙と表現した時点でそこには雨交じりをも含意していると知ったばかりだった。)
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この頃は、出会いも乏しいせいか、夢を見ても、滅多に艶っぽい場面に恵まれない。
そもそも、目覚めた瞬間、呆気なく夢は雲散するか弾け散ってしまう。
たまに覚えている夢の、その味気なさ、明らかに仕事と絡む内容に、辟易してしまう。
→ 「有沢橋」 (2011/12/18 撮影) 「昭和27年(1952)6月に鋼製永久橋として架橋されましたが、鉄橋化は中央部のみで、両端の木橋部分が昭和36年(1961)の洪水で流出しました。そのため昭和37年(1962)から改築が行われました。ところが、その後、昭和44年(1969)7月2日の集中豪雨で富山大橋の橋脚が沈下して通行不能となったため、有沢橋の交通量が増し、荷重負担となり、橋面に亀裂が入」ったという。神通川有沢橋下流(神通川緑地公園周辺)は、北日本新聞納涼花火大会の会場ともなる。
夢まで干からびてしまうなんて。
夢くらい、夢があってほしいよ!
では、以下、数日前に見た、訳のわからない夢へ。
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小生の乏しい古典の素養からも、「ももしきの」という枕詞があったような、朧な懸念も脳裏にちらついていたのだ。
ズボン下の「ももしき」と古典の「ももしき」が共に言葉としては正しくて、たまたま表記(発音)が似ている、つまり、似て非なる、ということもあっていいが、しかし、何かすっきりしない。
← 「神通川 舟橋の図」松浦守美(1824~1886) 株式会社 源 所蔵 「松浦 守美(まつうら もりよし、文政7年(1824年)‐明治29年(1896年))は、江戸時代後期から明治時代にかけての浮世絵師」。「明治19年(1886年)まで富山売薬版画の下絵を描いていた」という。(画像は、「日本一の神通川舟橋」より)
そこで、今日になってそのあたりのことをネットで調べてみることにした。
答えはすぐに出た。
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自宅では、相変わらず、ジャック・ケルアック著の『オン・ザ・ロード』(青山南訳 河出文庫)を読み続けている。
こういった勢いに満ちた小説は、一気呵成に読み倒したいが、そうもいかない雑事ばかりの日常が恨めしい。
こうした小説は若い頃に出合いたかった。
小生が若い頃に遭遇した似て非なる小説は、仙台の古書店で発掘したルイ=フェルディナン・セリーヌ の『夜の果てへの旅』だったっけ。
→ 冬の富山には珍しい、晴れの日々が続いている。このまま春になってほしいが…。
昨日の日記で、ズボン下のことなど(も)話題にした。
コメントを寄せていただいたりしたが、昨夜、仕事中、ふと不安になった。
いや、なにかもやもやしたものがあった。
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四年前に帰郷した折に、石油ファンヒーターを一台、また一台と買い込んだ。
茶の間と小生の部屋用である(父母の寝室用は以前からある)。
小生の部屋は相変わらず同じだが、石油ファンヒーターがあるだけで、まるで居心地が違う。
← 山下守胤『富山城下神通川船橋図(とやまじょうかじんづうがわふなはし)』 (画像は、「博物館だより 第三十号 平成11年6月16日」より) 「富山藩のお抱え絵師で狩野派の絵師として幕末に活躍した」というが、小生は初耳。
それでも、一昨年までは、寝る前にストーブを消していた。
寝入る(就寝)前は、暖かだった部屋も、やはり一気に冷え込んでしまって、寝床で読書なんて夢の夢だった。
布団(毛布)から手を出すと、悴んで、頁を捲るなんてできない。
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以前、「悴(かじか)む」という言葉を巡って、雑文を綴ったことがある。
「悴(かじか)む」は季語なので、一応は季語随筆を気取ってみたのだが、書き出してみると、いかにも小生らしく、駄文調の、まさに雑文。
→ 広重『六十余州名所図会 越中 富山船橋』 (画像は、「国立国会図書館のデジタル化資料」より)
この小文を書き連ねたのは、7年前の1月23日。
僅か7年の歳月を重ねただけなのに、体(力)の上で随分と違いを感じる。
体力の衰えは歴然たるものだが、それは動かなければ、そんなには感じない。
でも、動かなくとも感じさせられるのは、寒さに対する弱さ。
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過日、テレビのニュース番組で、「月光が水平線上にアーチ…石垣島で「月虹」」(科学 YOMIURI ONLINE(読売新聞))といった映像と情報に接した(このサイトで綺麗な画像も見ることができる)。
小生は、「月虹」という現象は見たことがない。
その前に、そんな現象のあること自体、初耳。
← カスパー・ダーヴィド・フリードリヒ(Caspar David Friedrich)「虹山の風景(Gebirgslandschaft mit Regenbogen)」( 1810) (画像は、「月虹 - Wikipedia」より)
こんな美しく稀な光景を実際に目の当たりにしたら、さぞ感動ものだろうが、でも、まあ、この目で見たわけでもないし、敢えて小生が日記に載せるまでもない。
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さて、小生がヒートショックの危険を感じるのは、まずはトイレ。
居間(茶の間)などは暖房を使うが、玄関やトイレにはさすがに暖房の暖気は及ばない(何時間か家に滞在していたら、そのうちに、数度は上がるかもしれないが、吐く息が白いことに変わりはない)。
→ 「スーパー風呂バンス1000」 一昨年の初冬から使い始めた。広告によると、「強力1000Wヒーター搭載のスーパー風呂バンス1000。これまでにないハイパワーで、寒い冬でも水から速やかにお湯を沸かせます」と銘打っているが、十時間の使用では、入浴には足りないぞ!
茶の間のドアを開ける瞬間、そこは外気であり、零度に近い世界が迫っている。
吐く息が白い。
トイレはさっさと済ませようと、時に焦って失敗することもある。
小はともかく、大ともなると、お尻(下半身)を外気に晒すわけで、何かマゾの気分を味わうようでもある。
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年初、まだ御屠蘇気分も抜けきらない6日午後、富山県朝日町の温泉施設で、入浴していた70代の男性2人が溺れて死亡するという事件(事故)があった。
温泉施設で高齢とはいえ、男性二人が同時に溺れて死亡する。
← 金子 邦彦【著】『カオスの紡ぐ夢の中で』(ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ) 本書は文庫本の形での復刊。複雑系研究の第一人者だという同氏の本を読むのは(多分)初めて。人気があった本だというが、ちょっと、数理に疎い素人をあまりに軽く見すぎている気がする。専門家だからこそ、マトリョーシカ風な入れ子の論理を弄ぶのも、一興なのだろうが、どうも、食い足りない。遊びつつ、夢中にさせられ、気がついたらとんでもない世界を垣間見せられていた、といった体験をさせてほしいもの。数式を用いないのは一つの工夫として、フラクタルやカオス理論などは、素晴らしい図像の一つも載せてほしかった。昨日の営業中にあっさり読了してしまった。やはり、理数系の啓蒙書というのは、欧米のものに一日の長があると痛感させられた。
当初は、出来事は謎めいていて、事件の可能性が当局の関係者を含め、考えざるをえない状況にも思われた。
一人ならありえても、二人が同時にってのは、ちょっと普通は考えられない。
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日差しの死角になっていて、気温が零度以上になっても溶けて滑り落ちない屋根の雪下ろしをどうするか、あれこれアイデアを練ってみた。
← 昨日(12日)の早朝は、氷点下三度だった。外の水道管が凍結し、場合によっては破裂の恐れもある温度。父もそのように警告していたっけ。仕事の日だったので、出掛けに外の水道(2箇所ある)の蛇口を若干、捻って、水をチョロチョロ流しておいた。コンクリート舗装された面に水が流れると、凍結の恐れもあるが、水道管の破損を避けるためには、仕方がない。朝のうちは晴れ渡り、放射現象とかで寒さが募る。立山連峰には相当の積雪がある。日に照らされて、険しい山並みの陰影が一層、凄みを増している。でも、美しい! 車中で何人ものお客さんと、寒さやら立山連峰談義。
例えば、投網方式。
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一昨日や昨日の暖かさは嘘のような寒さの今日の富山。
昨日などは、一部日陰部分や歩道の根雪(除雪されて掻き集められた雪山)を除いて、道路上も歩道にも、ほとんど雪がなく、歩行者もだが、車を運転しているものとしても、安心して通行できるのが嬉しい。
雪のない、凍結の心配のない路を走る、その安心の度合いは、降雪の日と比べると、雲泥の差、天国と地獄ほどの差があると実感する。
→ 昨年一月末の屋根の惨状。晴れても、日陰なので日中も融けない。
それも、束の間の夢で、今朝は冷たい雨。
それが九時過ぎには雪に変わって、あとは、緩急の差はあっても、ずっと雪。
午後も遅い四時過ぎになると、強風が吹き荒れてきて、一層、寒さが募る。
玄関の戸を開けるだけで、寒さがその牙を突き刺すようである。
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「アコマ・プエブロ - Wikipedia」を参照する。
← 土屋 光逸 作『高輪 泉岳寺』(木版) 土屋 光逸(つちや こういつ 明治3年<1870> - 昭和24年<1949>)は、「川瀬巴水らと並んで新版画を代表する風景版画家」。つい先日、東京在住時代のこと、特に山手線に新駅ということで、新駅名の候補としても有力かもしれない高輪・泉岳寺が話題に上ったので、大好きな版画の泉岳寺を見てもらいたくなった。泉岳寺は、事件に関連する頃でなくても、年中、線香の煙が絶えない…。
冒頭に、「アコマ・プエブロ(IPA :[ˈækəmə] ;西部ケレス方言:Aa'ku ;ズニ語 :Hakukya)は、アメリカ合衆国ニューメキシコ州中部の367フィート(112メートル)の砂岩のメサの頂上に建設された、プエブロ・インディアンのアドベ建築の集落である。「スカイシティ」、「天空都市」としても知られる」とある。
そうそう、『地上の見知らぬ少年』 の中でも、天空都市という脚注があったっけ。
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この日曜日(八日)、J・M・G・ル・クレジオ著『地上の見知らぬ少年』 (鈴木 雅生 訳 河出書房新社)を読了した。
→ 「アコマ・プエブロ」 「アメリカ合衆国ニューメキシコ州中部の367フィート(112メートル)の砂岩のメサの頂上に建設された、プエブロ・インディアンのアドベ建築の集落」。「現在は車道を使って上り下りができるが、かつては、砂岩に掘られた手製の階段でしか出入りする方法がなかった」とか。
再読である。以前、図書館から借り出して読んで気に入ったので、昨年末、敢えて購入し、年初から読み出していたもの。
クレジオの分身である少年は、ありうべき、それとも、あってほしいと願われたクレジオ自身のようである。
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pfaelzerweinさんに拙ブログにコメントを頂いた。
さっそく、返礼のコメントを書き込もうと、日記を読んでいたら、下記の日記に目が釘付け:
「セシウムも降り注ぐマイホーム - Wein, Weib und Gesang」
なぜなら、冒頭に、以下のようにあったから:
セシウムの降下量が急上昇しているとネットは炎上している。東電の会見でも質問が出たようだ。三月よりは少ないが五月よりも遥かに多いレヴェルで、十倍に跳ね上がっている。千葉県などでもそれが確認されているという。地上に降り積もったものが舞い上がったのかどうかは気象条件を見れば直ぐに分るだろう。巷に降り積もったセシウムの量は膨大だろうが、固定されずにこれほどまでに舞い上がるのは土壌などの関係が強いのだろうか、それとも全く他の理由があるのか?
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まず、題名の「シャドーエコノミー」だが、日本語(訳)では、地下経済とか、裏経済、あるいはアングラ(underground)経済などとも呼称される。
「GDPに反映されない脱税や贈収賄、麻薬、売春、AV、偽ブランド等の違法取引、自給産品消費、路上販売などの経済取引一般を指す」ものだ。
→ 1月6日の昼下がり、小雪の舞う中、富山市の松川沿いの土手道で、こんな写真を撮った。
床屋さんとかラーメン屋さん、小さなたこ焼き屋さんとか、利用したり飲食したりしても、領収書を発行しない店は結構ある。
医者への謝礼金とか、お寺さんへのお布施、お賽銭、闇金融、賭博、ダフ行為、偽札、密漁品(盗品)売買、不正コピーブランド・海賊版の売買・レンタル、不正規労働etc.…。
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昨日の日記に書いたように、元旦、ル・クレジオの『調書』を読了し、同日、早速、本書『地上の見知らぬ少年』を読み始めた。
← J・M・G・ル・クレジオ著『地上の見知らぬ少年』 (鈴木 雅生 訳 河出書房新社)
本書は既に昨春、図書館から借り出して読了済みである。いたく感銘を受けたので、どうしても所蔵したくて、昨年末、購入。
買った以上は、読みたくなる、というわけで、読み始めたのだ。
小生のささやかなル・クレジオ読書歴は、「ル・クレジオ…物質的恍惚!」を参照のこと。
さて、昨日の小文の続きへ!
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昨年下旬以来、本書を読んできて、丁度というか、元旦に読了。
本書は豊崎光一による旧訳のままのもの。但し、ノーベル賞受賞に絡んでの3年前の出版。ル・クレジオの処女作。
→ J・M・G・ル・クレジオ/著『調書』(豊崎光一/訳 新潮社)
詩的な、瞑想的な、ビルの屋上それとも断崖絶壁から飛び降りていくような、自殺しないためのギリギリの、どこか捨て鉢ですらあるような、試行錯誤的な文章が続く。
結末部分に至って、その筆力に圧倒されていった。
小生は、以前、書いたように、『物質的恍惚』(新潮社)を読んで以来のクレジオのファンなのである。
但し、若い頃は、それほど読み込んだわけではなかった。
さて、本文に取り掛かろう!
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年の瀬も押し詰まった12月30日、たまたま遭遇した「ゆく年くる年」の中継準備作業。
本年は、富山県にある「真言密宗大本山 大岩山 日石寺」(富山県上市町)からの中継もあると知る。
→ 実際のNHK「ゆく年くる年」のテレビ中継画像から。
タクシー稼業に勤しむ身となっては、就寝の時間は、遅くても夜十一時である。
なので、リアルタイムでは、「ゆく年くる年」を観ることは叶わない。
なので、録画しておいて、後日、ゆっくり鑑賞。
スタッフの方が仰っておられたように、(計ったわけではないが)実際、放送は1分前後だった。でも、さすがに滝行など緊迫感に溢れていて、身の引き締まる思いをさせられる絵となっていた。
さて、以下、本文へ(「祈り」を巡って(その3))!
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← 大晦日、ホームセンターへ行って、融雪ホースを買ってきた。その日、早速、玄関の外の水道の蛇口に接続。水を流してみる。各所に空いている穴から水が吹き出る。でも、10メートルの長さで7千円。我が家の細長い庭には、あと20メートル以上のホースが要る。高い。そこで、前から考えていた着想を実行に移すことにした。納屋の古いホースを3本(それぞれ10メートルくらい)取り出し、キリで穴を空ける。それら接続し、勝手口から裏庭を回って表の玄関へ、さらに庭の入り口まで延長させた。改めて水を流して実験。キリで空けた穴だと、空き具合が不揃いなのは覚悟の上。水の出のいいところ、全く出ないところといろいろある。でも、これで、庭の入り口から玄関先、さらに勝手口まで融雪ホースが設置されたことになる。この作業に出勤日を含め、延べ4日を要した。あとは雪の降るのを待つだけ。…別に降って欲しいわけじゃないけど!
さて、本文へ!
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そうした小生ではあるが、祈る気持ちだけは持っている。たとえ、わが寓居に仏壇も神棚もなくても、目を閉じて瞑目する中に、この先の人生が闇の果ての崖があるばかりと予感するばかりと、何か暗澹たる思いが沸き立ち、誰かに縋りたくなる時があったりする。
← 「六本滝」 「六大(地、水、火、風、空、識)を型どった6つの蛇口から流れる滝に打たれることにより、六欲煩悩を洗い落とすことができ」るという。六根清浄。「ゆく年くる年」のテレビ中継では、この滝での滝業のようすが映し出されていた。
友の、あるいは友の近親の、あるいは小生自身の近親の不幸を、それとも、己自身の蒙昧なる心性の闇を、天なのか、それとも地にあるのか知れない何ものかに祈るしかない思いに満ちる時があったりするのだ。
祈るのは、何もお寺へ、あるいは神社に足を向けなくても、禊でもして、それとも水垢離をし、裃か白無垢の姿になっていなくても、祈る気持ちが深甚であれば、それはそれでいいはずだと思う。
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さて、「真言密宗大本山 大岩山 日石寺」では、大きな仕事が展開されていた。
NHKの総合テレビで放送される「ゆく年くる年」の、本年度の中継地の一つとしてこの「大岩山 日石寺」が選ばれており、前日の30日は、大勢のスタッフたちが中継の準備に大童だったのである。
小生は、ただ傍観するのみだったが、準備の大変さのほんの一端を眺めただけでも、身の引き締まる思いを抱かされたのだった。
→ 「大日堂」
スタッフの方に、少々間抜けな問いと思いつつ、伺ってみた。
「放送は、何分ほどなんですか?」
「せいぜい1分ほどです。全国放送ですから」
「えー、(それだけ) ? !」
(それだけ)の文言は呑み込んだつもりだが、もしかしたら呟いてしまったかもしれない。
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