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2011/12/17

ウルフ『灯台へ』の周りをふらふらと(後編)

 以下、ネットで見つけた、この小説『灯台へ』からの引用文を幾つか、紹介する。
 小説は、こうした文章がどこまでも、終始、続いていると思っていいだろう。

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→ 曇天。13日に撮影。11日、ほとんど幻のような初雪。16日に、雪。積もり始める。鉛色の空。これが北陸の、富山の人間の原風景。だからって、根暗ってわけじゃない!

[以下、全て、ネット上で見つけた、翻訳本からの引用です。]

そしてこれが――と、絵筆に緑の絵具をつけながらリリーは思う、こんなふうにいろんな場面を思い描くことこそが、誰かを「知る」こと、その人のことを「思いやる」こと、ひいては「好きになる」ことでさえあるはずだ。もちろん今の場面は現実ではなく、単に想像したものにすぎない。でもわたしにとって、人を理解するというのはこんな個人的な連想によるしかないように思う。彼女はまるでトンネルでも掘るようにして、さらに絵の中へ、過去に中へと踏み込んでいった。(p.334)

つまり、「時間を止めること」、流れ行く時間それ自体を「凍結」し、「時間的永遠」という矛盾した「永遠」を生み出すこと。「近代絵画」の倒錯した苦行が始まる……。たとえば、モネのいわゆる「印象主義」の試み。すなわち、「時間」を「今、ここ」の瞬間的静止によって永遠の中に凍結すること。 (「絵画の中の時間」)

夫人は何でもない瞬間から、いつまでも心に残るものを作り上げた(絵画という別の領域でリリーがやろうとしていたように)――これはやはり一つの啓示なのだと思う。混沌の只中に確かな形が生み出され、絶え間なく過ぎゆき流れゆくものさえ(彼女は雲が流れ、木の葉が震えるのを見ていた)、しっかりとした動かぬものに変わる。人生がここに立ち止まりますように――そう夫人は念じたのだ。(p.311)

そもそも肉体に宿る感情を、一体どうすれば言葉にすることができるといのだろうか? たとえばあそこの空虚さを、どうように表現すればいいのか?(リリーの眺める客間の踏み段には恐ろしく空虚に見えた。)あれを感じ取っているには身体であって、決して精神ではない。そう思うと、踏み段のむき出しの空虚感のもたらす身体感覚が、なお一層ひどくたえがたいものになった。(p.345)

たぶんこれがカーマイケルさんの答えなんだろう――「貴方」も「私」もそうして「夫人」も、皆死んで消え去るのです。何も残らないし、すべては変わります。だが言葉は違うし、きっと絵も違うではずでしょう。でも、わたしの絵は屋根裏部屋にかけられるのがせいぜいで、ひょっとすると丸めてソファーの下に突っ込まれてしまうかもしれない、とリリーは思う。いや、たとえそうであっても、そのような絵に関しても氏の言葉はやはり当たっているのだろう。こんななぐり描きでさえ、そこに現実に描かれたものより、それが表そうとしたものゆえに、きっと「永遠に残る」はずだ、と言いかけたのだが、さすがにそう口に出すのはあまりに面映ゆく、ただ黙って自分に言い聞かせようとするにとどめた。(p.347)

(以上、ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』御輿哲也訳(岩波文庫)より。「孤島 ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』御輿哲也訳(岩波文庫)」参照)

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← ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』御輿哲也訳(岩波文庫) (画像は、「Amazon.co.jp」より)


彼女は肩ごしに振り返って町の方を眺めた。町の灯りは、まるで強風に吹かれた銀色の水滴の群れのように、小さくまとまって揺れ震えていた。いろんな貧しさも苦しみも、結局はああいう形になるんだわ。町や港や小舟の放つ光の群れは、そこに何かが沈み果てたことを示す幻の網のようだった。


キャンバスの前に立つことは、何より手厳しい要求を突きつけられる交渉に似ていた。たいていの崇拝の対象は、崇拝しておけばそれですむ。身分の高い男や女であれ、あるいは神であれ、ひれ伏してさえおけばよいのだ。ところが絵にすべき形というのは、たとえそれが籐のテーブル上でぼんやり光る白いランプの笠にすぎなくとも、いつも描く者を果てしのない戦闘に巻き込み、こちらが負けるとわかっている戦いへと、無理やり駆りたてずにはおかないのだ。


「貴方」も「私」もそして「夫人」も、皆死んで消え去るのです。何も残らないし、すべては変わります。だが言葉は違うし、きっと絵も違うはずでしょう。でも、わたしの絵は屋根裏部屋にかけられるのがせいぜいで、ひょっとすると丸めてソファの下に突っ込まれてしまうかもしれない、とリリーは思う。いや、たとえそうであっても、そのような絵に関しても氏の言葉はやはり当たっているのだろう。こんななぐり描きでさえ、そこに現実に描かれたものより、それが表そうとしたものゆえに、きっと「永遠に残る」はずだ(略)。


(以上、ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』御輿哲也訳(岩波文庫)より。「31) 『灯台へ』 ヴァージニア・ウルフ epi の十年千冊。-ウェブリブログ」参照)


 波音は、たいていは控えめに心を和らげるリズムを奏で、夫人が子どもたちとすわっていると、「守ってあげるよ、支えてあげるよ」と自然の歌う古い子守唄のようにも響くのだが、また別の時、たとえば夫人が何かの仕事からふとわれにかえった時などは、そんな優しい調子ではなく、激しく太鼓を打ち鳴らすように生命の律動を容赦なく刻みつけ、この島もやがては崩れ海に没し去ることを教えるとともに、あれこれ仕事に追われるうちに彼女の人生も虹のように消え去ることを、あらためて思い起こさせもするのだった。


(以上、ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』御輿哲也訳(岩波文庫)より。「『灯台へ』ヴァージニア・ウルフ - キリキリソテーにうってつけの日」参照)

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→ 富山市内某公園にて。裸木。すっかり冬の姿に。
 子供は決して忘れない。だからこそ、大人が何を言い何をするかはとても重要で、あの子達が寝てしまうと、どこかホッとする。これでやっと誰に対しても気を遣わなくてもすむ。一人になって、私自身に戻れる。そうしてそれは、最近しばしばその必要を感じることだった。――考えること、いや考えることでさえなく、ただ黙って一人になること。すると日ごろの自分のあり方や行動、きらきら輝き、響きあいながら広がっていたすべてものが、ゆっくり姿を消していく。やがて厳かな感じとともに、自分が本来の自分に帰っていくような、他人には見えない楔形をした暗闇の芯になるような、そんな気がする。(中略)そしてこの隠れた自分は、余分なものを一切脱ぎ捨てているので、自由に未知の冒険に乗り出すこともできそうだった。日常の人生がしばしの間見えなくなると、体験の領域は途方もなく広がり始める。誰にだって、この無限の力を感じることができるはず、と彼女は思った。(中略)外見の下は黒々として、果てしなく広くどこまでも深い。それでも時折は表面に浮き上がって顔を出すこともあるので、まわりの皆には、それが自分だと思われるのだろう。私にとって世界の広さは無限なのだ。(中略)暗闇の芯になってしまえば、誰にも見られずどこにでも行ける。誰にも止められないのだと思うと、勝ち誇った気分にさえなる。そこには自由があり平穏さがあって、さらに歓迎すべきことに、何かすべてを一つにまとめあげる力、安心感に支えられたくつろぎにも似た気分が感じられた。私の経験では、黒い楔形にならず普段の自分でいる限り、安らぎは見出しようがない。日頃の自分を脱ぎ捨ててこそ、苛立ち、焦り、心の動揺などがかき消えていく。そしてこの平穏さ、この休息、この永遠の時間のただ中で、さまざまの事が一つに重なり合うとき、夫人の口元には、われ知らず、人生に対する勝利を謳う声が浮かんでくるのだった。それから気持ちを落ち着かせ、灯台の光、あの三度目に放たれる長くしっかりした光のストロークを迎え入れるべく、静かに目を上げた。あれは私の光だ。いつもこんな時間にこんな気分で周囲を見ていると、見ている何かに自分が溶け込んでいくような気がする。あのゆっくりとした長い光にしても、まるで自分のもののように感じられる。時々夫人は、手仕事をかかえてすわったまま、じっと何かを繰り返し見つめていて、やがて自分が見つめているもの――たとえばこの灯台の灯り――と一体となる思いに見舞われることがあった。

絵と風景をぼんやり見比べながら休んでいると、絶えず心の中の空を横切り続ける昔からの疑問が、またしても頭をもたげてきた。それは茫漠とした掴みどころのない疑問なのだが、こんなふうに張りつめていた気持ちを少しやわらげた時など、決まって妙になまなましい形をとって浮かんでは、彼女の前に立ちはだかり、動こうとせず、暗くのしかかってくるのだった。人生の意味とは何なのか?――ただそれだけのこと。実に単純な疑問だ。だが年をとるにつれて切実に迫りくる疑問でもあった。大きな啓示が訪れたことは決してないし、たぶんこれからもないだろう。その代わりに、ささやかな日常の奇跡や目覚め、暗がりで不意にともされるマッチの火にも似た経験ならあった。そう、これもその一つだろう。これとあれと向こうのあれと、私とチャールズと砕ける波と――ラムジー夫人はそれをたくみに結び合わせて見せた、まるで「人生がここに立ち止まりますように」とでもいうように。夫人はなんでもない瞬間から、いつまでも心に残るものを作り上げた(絵画という別の領域でリリーがやろうとしていたように)――これはやはり一つの啓示なのだと思う。混沌の只中に確かな形が生み出され絶え間なく過ぎ行き流れゆくものさえ(彼女は雲が流れ、気の葉が震えるのを見ていた。)、しっかりとした動かぬものに変わる。人生がここに立ち止まりますように。――そう夫人は念じたのだ。「ラムジー夫人!ラムジー夫人!」とリリーは繰り返し呼びかけた。こんな啓示を得たのはあなたのおかげです。

(以上、ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』御輿哲也訳(岩波文庫)より。「ヴァージニア・ウルフ  灯台へ を読んで やぶのなかのひとりごと-ウェブリブログ」参照。このブログでは、小説の舞台背景などが、灯台も含め、画像でも説明されている。)

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← ヴァージニア・ウルフ∥コレクション『燈台へ(TO THE LIGHTHOUSE) 』(伊吹知勢訳 みすず書房)


「そう、もちろんよ、もし明日が晴れだったらばね」とラムジー夫人は言って、つけ足した。「でも、ヒバリさんと同じくらい早起きしなきゃだめよ」
 息子にとっては、たったこれだけの言葉で途方もない喜びの因(もと)になった。まるでもうピクニックに行くことに決まり、何年もの間と思えるほど首を長くして待ちつづけた素晴らしい体験が、一晩の闇と一日の公開さえくぐり抜ければ、すぐ手の届くところに見えてきたかのようだった。この子はまだ六歳だったが、一つの感情を別の感情と切り離しておくことができず、喜びや悲しみに満ちた将来の見通しで今手許にあるものまで色づけしてしまわずにいられない、あの偉大な種族に属していた。こういう人たちは年端もいかぬ頃から、ちょっとした感覚の変化をきっかけに、陰影や輝きの宿る瞬間を結晶化させ不動の存在に変える力を持っているものなのだが、客間の床にすわって「陸海軍百貨店」の絵入りカタログから絵を切り抜いて遊んでいたジェイムズ・ラムジーも、母の言葉を聞いた時たまたま手にしていた冷蔵庫の絵に、自らの恍惚とした喜びを惜しみなく注ぎこんだ。その冷蔵庫は、歓喜の縁飾りをもつことになったわけである。

(以上、ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』御輿哲也訳(岩波文庫)より。「牛肉の赤ワイン煮 - A Diary : novels and ...」参照)


ウルフ関連拙稿:
天神とウルフつなぐは弥一のみ
ヴァージニア・ウルフ……クラゲなす意識の海に漂わん

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